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semスキン用のアイコン01 アラバマ物語 "To Kill A Mockingbird" semスキン用のアイコン02

  

2006年 07月 08日

a0035172_2123886.jpg僕は、原作のハーパー・リーをカポーティの『冷血』の献辞によって知った。その『冷血』が新訳となって再版されている。村上春樹が翻訳にも賞味期限があるというようなことを言っていたけど、翻訳本もだんだんと新しいものになっていくのだろう。『冷血』なんかはあまり翻訳文の古さを感じない例だと思うのだが、中には非常に読みにくい翻訳文があるのも事実。これらが適切に訂正され、また時代にあった新訳が生み出されていくのはとてもよいことだ。しかし、同じ出版社の場合、旧訳がそのまま自動的に廃版になってしまうのはちと寂しい。旧訳も一つの文学の成果として何かの形で残していくことを検討して欲しいものだ。

a0035172_21242895.jpgハーパー・リーの原作"To Kill A Mockingbird"も60年代初期の翻訳本なので、ところどころに文章の古さを感じるが、柔らかい文体はとても親しみやすく、人種や部族の違いによる会話表現の使い分けなども結構味があっていい。アメリカ文学の最高峰として、『冷血』の次にはこの本が新訳化されてもおかしくないが、外装も味のある挿し写真付きのペーパーバック(暮らしの手帖社)で、これはぜひとも残して欲しい1冊である。


前置きが長くなったけど、この作品は小説と共に映画も傑作と呼ばれており、僕も好きな作品である。特に映画はローリングストーン誌のオールタイム映画のベスト5に選ばれるほどにアメリカ人に浸透した、彼らの良心の源泉とも言える作品なのである。(そしてこの映画でグレゴリー・ペック演じるアティカス・フィンチ弁護士がアメリカ映画協会によって20世紀ナンバーワンのヒーローに選ばれた) と同時に、実はこの作品はアメリカという国のいろいろな側面を僕らに見せつける。小説は、少女スカウトの回想によって構成されており、さまざまな出来事が子供の目を通して語られる。大人を理解すること、公正さとは何か、差別とは何か、妥協とは何か、それらの思念の中で彼女らの誠実さの行方がそのイノセンスによって赤裸々に綴られている。そして、その語られる中に、アメリカという国の「正義」、その形が見え隠れする。

a0035172_21234045.jpg<おもいっきりネタばれします!>この作品は一種の法廷物とも読める。ある黒人の青年が強姦罪で逮捕され、主人公の少女の父親であるアティカス・フィンチが被告の弁護人を受けることになる。黒人青年が実は無罪であることが、裁判劇の中で徐々に明らかになり、すべての状況証拠が黒人青年の無罪を指し示めしているのにも関わらず、原告側の下層白人移民ユーイルと娘メイエラの証言のみによって、最終的に黒人青年は陪審員全員一致の有罪判決を言い渡される。それはもちろん彼が黒人であるという唯一覆せなかった大きな罪所以であり、大人の誰もが受け入れざるを得ない自明の結末だったのである。陪審員だけでなく、裁判に関わった人全てが黒人青年の無罪を確信しながら、実際は白人女性が黒人を誘惑したという事実を公に認めることができず、黒人青年を有罪にしてしまうのだ。黒人青年はその後、絶望の末に脱走を図ったとして射殺されるのである。

無実の人間を有罪と認めることなんてできないと言い張るアティカスの息子、この物語のもう一人の主人公ジェムに対して、アティカスはこう述べる。
「あの人たちは十二人とも、ふだんは思慮分別があるんだ、トムの陪審員をやった人たちだよ。ところがお前もみてわかっただろうが、彼らと理性のあいだに、なにかが入り込んできたというわけで、(中略)われわれの法廷では、白人のいうことが黒人のいうことと反対のとき、勝つのは白人ときまっているんだ。けしからんことだが、そうでないと世間が承知しないんだね」

そしてジェムはスカウトにこう言うのだ。
「ぼくはね、いまはっきりわかったよ。近頃、気になってしかたがなかったんだけど、やっとわかった。つまり世の中には四種類の人間がいるってことだよ。ぼくたちや近所の人たちのようなのがふつうの種類、森のなかからでてくるカニンガムのような種類に、ごみ捨て場にいるユーイルのような種類、最後はニグロだ」

ユーイルは裁判が終わり、黒人青年が射殺された後もアティカスを憎しみをもって付け狙うようになり、その矛先は子供達に向かうことになる。(何故ユーイルはここまでアティカスを憎むのか?彼も実は差別される側の人間なのである) 子供達を襲ったユーイルは思わぬ援護者によって逆に刺殺されてしまうのであるが、結局、ユーイルは事故死の扱いで処理されるのである。そのまともな裁判もない事故死の扱いがこの作品を貫く正義の報いであり、この作品がアメリカ人の良心であるところのアメリカの正義なのだ。

この物語を思う時、僕は名作映画『十二人の怒れる男』を同時に思い出す。この作品もアメリカの陪審員制度における「正義」を扱ったものであるが、ここでの十二人は皆が顔の見える人間として自らの歴史を語り合い、納得するまで議論を尽くして、一旦は有罪と決まりかけた少年を無罪へと導く。但し、ここに『アラバマ物語』で差別の主題ともなる黒人と女性はいないし、ユーイルもいない。アメリカの正義というのは実はそんなに単純なものではないのだと思う。『アラバマ物語』は1930年代が舞台となっているが、まだそれから70年しか経っていない。当時、黒人は人間ではなく、学校教育も受けられず、当然まともな仕事にも就けなかった。何かあれば簡単に吊るされた、そんな時代からたったの70年しか経っていないのだ。黒人のみならず、森の中で自給生活をする人々、ゴミを漁って生活をする最下層の白人などが歴然と存在していた時代からほんの少ししか経っていない。差別は人々の意識に根付くものだ。アメリカという国はそんな差別を乗り越えようとして、結局は乗り越えられず、それがアメリカの正義を形づくってきた。その正義は微妙に歪んだ形を維持しながら、それを柔らかい衣に包んだまま何十年も受け継がれてきたような気がする。この問題はとても深い。それはアメリカ人の意識に深く根付き、彼らの正義を確実に規定しているのである。1962年アメリカ映画

みんなのシネマレビュー 『アラバマ物語』
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by onomichi1969 | 2006-07-08 21:33 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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