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semスキン用のアイコン01 ミリオンダラー・ベイビー "Million Dollar Baby" semスキン用のアイコン02

  

2005年 06月 04日

a0035172_19483389.jpg僕には他人の気持ちを慮って映画を観るなどという心持がない為、この「ミリオンダラー・ベイビー」という独善的な恋愛映画には素直に感銘を受けた。作品とはそもそも主観的なものであって、全ての人に受け入れられるべきではないし、ある時は人を傷つける。(主張というのはそういうものだ)僕らは題材そのものではなく、作品が何を伝え、それをどう味わったか、その確信の確度とその揺らぎを自身の体験として表明すべきなのである。それ以外に映画について語る意味を僕は持っていない。

なぜこんなことを書くかというと、この映画に救いがないから作品としてダメだとか、実際の半身不随の方やその家族に対する配慮がないとか、そういう感想をいくつか目にしたからである。いまさらこのような意見に答える必要もないけど、その視点の固着感というか、拡がりのなさに多少の危惧を覚えてしまう。

まぁそれはそれとして、この作品は確かに僕を揺さぶる。
この映画はフランキー(クリント・イーストウッド)とマギー(ヒラリー・スワンク)の物語をスクラップ(モーガン・フリーマン)が語るという構成となっている。それがフランキーの娘であるケイティに向けて話されていたということが最後になって初めて分かるわけだが、その瞬間にこの物語が実は一種の回想であり、既に主人公の2人は現実としてそこにいないということが僕らに伝えられる。
スクラップはケイティに二人の辿った絶望そのものを語っているのだろうか?単なる救われなさだけを語っているのだろうか?そんなはずのないことはもはや言うまでもないだろう。

僕は最初にこの作品を恋愛映画と称したけど、一般的に言ったら主人公2人の関係は恋愛と呼べるものじゃない。恋人でも親子でもない、単なるトレーナーとボクサーの関係である。しかし、その深度はとても深い。人間とは関係であり、「生きる」とは自身と世界の距離感を反映するものである。そもそも「生きる」とは主体的なものであるが、主体は常に孤独であるが故に、彼は同時に死に至る絶望を併せ持つ存在である。だから彼は可能性としての生きる実感を求める。それがエロスである。恋愛もエロスの一形態であり、僕らはそこに生きている実感をその瞬間として汲み取りながら、ある種の生きがいを得るわけだ。しかし、彼はやはり孤独であることに変わりはない。恋愛とは、自意識の劇であり、その性質上、独善的なものであるからだ。そして、恋愛とは、そもそもそういった精神的なものなのである。

前置きが長くなったが、フランキーとマギーの関係は恋愛そのものであり、同時にそれを超え出たものであると感じた。
「自分を守れ」「タフなだけではダメだ」「相手の逆へ動け」、、、ボクシングにおけるフランキーの信条こそが彼の美意識としての人生を物語る。しかし、そんな彼の孤高さは、孤独と等価だ。フランキーとマギーは孤独が結びつける精神的な関係であると共に、トレーナーとボクサーというボクシングを通じた絆によって、一種の肉体的な関係をも共有する。それは、2人を新たな関係性へと押し上げ、お互いがお互いを生きる実感として見なすようになるのである。
僕らはそこに通常の恋愛における激しさやメロウさとは違う、揺るぎない生の勁さ(つよさ)、身体性に基づく深い関係を見出すのである。
2人は精神的な恋愛関係であると共に、身体的とも言える強い結びつき、生の実感を共有する。だからこそ、マギーはフランキーによって死に至らしめられることを望み、最終的にフランキーはマギーに対してタオルを投入できたのである。

スクラップがケイティに語り聞かせる2人の物語は、やはり物語として語られなければならないと僕は思う。彼らがどう生きてどう死んだか、それが2人の物語として語られてこそ、関係を生きるという実感、可能性、そのリアリティが初めて強調される。僕はそこにこそ、この映画の生の強度を強く感じる。

僕らにとっての主体的な生とは何だろうか?主体的な生とは主体的な死にも繋がる。今、日本には年間3万人の自殺者がいるが、彼らは主体的に死を選び取っているのだろうか?正直言って僕には分からない。僕には所詮「生きる」意味すらも実は分からないのである。分からないことは分かるし、そのことを意識する限りにおいて、分からないことのリアリティを感じることができる。それだけなのである。この映画を観て感じるリアリティも逆説的な生への実感という意味で同様かもしれない。

最後に、、、この映画の陰影ある映像こそ、クリント・イーストウッドの「いかがわしい場所で人間の道を極める」意志そのものだろうと、僕は思うのである。 2004年アメリカ映画

(追記)この映画のラスト、、、「人間の宥め難い不遇の意識に対する水のような祈りとして」、生きる努力に対するひとつの許しとして、タオルは投げられたのだと僕は思う、というか思いたい。

ちなみに行為としてのタオル投入は、闘いの放棄という意味しかない。通常、セコンドは闘者の直接的、間接的(肉体的)意志を感じ取り、またその声を聞き、タオルを投入する。その際、セコンドは闘者とリングを共にしているのだ。

『ミリオンダラー・ベイビー』-goo映画-
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by onomichi1969 | 2005-06-04 20:15 | 海外の映画 | Trackback(3) | Comments(0)

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