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semスキン用のアイコン01 断章:汎神論から不在の神へ semスキン用のアイコン02

  

2012年 06月 16日

a0035172_2336312.jpg「「不在の神」とは何でしょうか?」 そういう質問のようなものを連続して頂いたこともあり、少し自分なりに纏めてみました。取り留めもないメモのようなものです。

信仰としての神は、その対象としての実体であり言葉であり霊的なモノとして捉えられますが、神を哲学として捉えた時、スピノザに代表される汎神論、「いっさいの完全性を自らの中に含む神。超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因となる神。神とはすなわち自然である」という考えが一つの前提となります。完全性としての神は、言い換えれば信仰としての神の不在となり、スピノザは無神論者というレッテルを貼られることになりました。

汎神論は、「不在の神」という概念を導き出します。思想家であればシモーヌ・ヴェイユ、文学者であればドストエフスキーに代表される考え方かと思います。

ヴェイユは自己否定としての神を語ります。神は創造以前には全てであり、完全であったのが、創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意して、自ら退くことになります。神の代わりに世界を支配するようになった原理は、人格の自律性、物質の必然性です。ヴェイユは、偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より、神を否定する者の方が神に近いと言いました。全く神が欠けているということで、この世界こそが神そのものであり、その奥義に触れることで人ははじめて安らぐことができると、ノートに書き残しているのです。「神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ」と。

神を実体として信仰することは、この世の中の不幸、幼い子供が虐待によって何の罪もなく死んでいくという現実の矛盾を肯定することと同義なのではないか?これはドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で問うた命題です。この世の中には絶対的な悪がある、それを以て神の不在を唱えるのは簡単であるが、その不在を含んだ世界の有り様にこそ、真に人を倫理的に人たらしめる道があり、それこそが信仰すべき対象、愛の源泉としての神の徴なのだと考えるしかない。ドストエフスキーの中には神の実在と不在が常に共存していました。

汎神論及び不在の神という概念は、認識論の中の究極の妥当性(二律背反の統合)という観点において、現代科学にこそ当て嵌まるものだと思います。欧米では、科学と宗教は基本的に矛盾しません。量子力学と神の存在は両立するのです。そもそも、神の御業によって成立した世界を人間の理性によって明らかにしようとする試みこそが科学であり、だから、アインシュタインは量子の確率論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と言って否定しました。神は完全であるべきだと。「私は、スピノザの神を信じる。世界の秩序ある調和として現れている神を」と。しかし、世界は不完全で不確定であることが科学的に証明された現代において(ハイデルベルグの不確定性原理とゲーデルの不完全性定理)、神は、完全さと不完全さを包含した世界を肯定し得る唯一の存在として感じることもできるのです。

科学の最先端にこそ、神の影を見いだすことができます。宇宙のビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間のゼロ地点、その先を遡ることができない「特異点」という問題にぶつかります。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われていますが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのです。そういう人知の及ばない(神懸かり的な)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在します。つまり、全てのフォアフロント、所謂「細部」にこそ、奇跡があり、神は「宿る」のではないでしょうか。

神の実体的な存在と恩寵を信じられなくなってしまった現代において、汎神論は一般的な概念と言っていいと思います。その派生として、不在の神という概念を理解することはさほど難しくありません。そのような神の概念は、人々の不幸の意識に対する救済を期待するような従来の宗教には到底なりえませんが、創造神に対する敬虔と畏怖という人間にとっての父母たる信仰になり得るのではないか。物質主義によって覆われた現代社会にこそ、科学で解明できない非知への敬虔と畏怖として、神への信仰が成り立つのだと思います。信仰の対象となる神秘の部分こそ、先端科学におけるフォアフロントであり、「細部」に呼応するものと思えるのです。

ちなみにシモーヌ・ヴェイユは、晩年(といっても30代)に神の不在を前提としたキリストへの敬虔なる信仰に目覚めます。キリスト者とは、ドストエフスキーやキルケゴールの思想も同様ですが、世の絶望と対峙するために生きていく力となりうる信仰と科学的合理性が融合した近代的な信仰の在り方とも言えます。

スピノザ的な汎神論は、「神は自然」と見做すように、日本的/原始的な信仰、アニミズムに近い考え方です。但し、「神は、万物の内在的な原因であり、唯一の実体である」とも言っており、基本的に一神教であり、日本の八百万の神々を合一した唯一神なのです。

非在ではなく、不在であり、神の不在ではなく、不在の神。スピノザ、ヴェイユとドストエフスキーからアインシュタインへ。日本的な自然信仰(アニミズム)と一神教の融合。細部に宿る神。沈黙の神。荒ぶる神。それは不在の神と習合するものであり、そういう信仰こそ現代的に有意ではないかと思うのです。
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by onomichi1969 | 2012-06-16 23:40 | 時事 | Trackback | Comments(0)

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