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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01 ミッション:8ミニッツ 再び semスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 27日

ミッション:8ミニッツ 再び_a0035172_2122946.jpg『ミッション:8ミニッツ』2回目の鑑賞は映画館で。

『ミッション:8ミニッツ』の作品概要については、前回のレビューを参照。今回は、もう少し深くその世界に入ってみたい。

「ソースコード」とは、開発者ラトレッジ博士の最初の説明によれば、ある事件で死んだ人間の最期の8分間の記憶にアクセスし、そこでの追体験をフィードバックすることにより事件の真相に迫るというプログラムである。だから、これは既存記憶へのアクセスであり、その記憶によって紡がれるのはあくまで仮想現実でしかない。ラトレッジ博士もこれはタイムトラベル(パラレルワールド)ではないと断言している。彼が思わせぶりに持ち出す量子物理学というタームは、おそらく意識の転送を含めた情報処理に量子物理学の理論が応用されていることを示唆したものだと推測される。

そもそも意識を科学的に取り扱うということはどういうことなのだろうか。
ブラックホールの蒸発理論でスティーブン・ホーキングと共に名前を連ねる宇宙物理学者であり、数学者でもあるロジャー・ペンローズは、近年、意識を科学的に解明する研究を発表した。意識は、量子重力理論(量子論と相対論の融合)により解明できると言う。
従来の分子生物学によれば、脳内の働きは全てシナプスを起点とした電気信号(イオン化)により説明される。しかし、単純な電気信号の連なりがどのように瞬時で膨大な広がりを持つ意識を生み出すのか、或いは先行する意識がどのように電気信号と結びつくのか、その辺りは全く分かっていない。
ペンローズ博士によれば、意識は神経細胞内のチューブ状の器官の中における量子力学的作用によって発現するという。その領域の物理学的作用は、シュレディンガーの波動方程式による量子の振る舞いによって説明される。それは必然的に量子論の世界で常に問題となる波動方程式の収縮(確率論的に偏在する量子の位置が観測によって1点に収縮する)と電子スピンに関連する量子テレポーテーション(量子もつれの関係にある2つの量子のうち一方の状態を観測すると瞬時にもう一方の状態が確定する)の二つの興味深い現象が関連してくるということなのだ。
※量子テレポーテーションについては最近東大で従来の思考実験を実験系によって検証したとのニュースが記憶に新しい。今後は量子コンピュータの分野に応用されるとのこと。それはそれ。

波動方程式の収縮については、「観測問題」に由来するいくつかの解釈がある。波動方程式における量子の重ね合せ、その確率論的存在、シュレディンガーの猫における「生きている猫」と「死んでいる猫」の両方が並行に存在し得るという考え方があり、それが量子論における「多世界解釈」、つまりパラレルワールドの理論的根拠となっている。近年、ホーキング博士はこの理論に執心し、宇宙がマルチバースであるということを最新著書で繰り返し述べている。

量子論は、波動方程式の収縮、「観測問題」故に必然的にパラレルワールドに結びつくのである。

それともうひとつのキーワード、量子テレポーテーション。一方の量子のスピン状態の観測により、もう一方の量子のスピン状態が瞬時に(時空を超えて)決定できる。これも量子論により必然的に考慮され得る原理である。

分かりますか?
意識が量子物理学によって記述されるということは、必然的にパラレルワールドと量子テレポーテーションという超常的現象に連関するのです。これはどういうことを意味するのだろうか?

近年、量子コンピュータの研究が盛んに行われている。量子コンピュータは、量子の作用により、これまでとは桁違いの情報処理が可能だという。圧倒的な情報処理能力を持つ量子コンピュータは意識を生み出す可能性があるのだろうか? 進化した情報処理能力が意識を生み出すのか、それとも量子論的な作用自体が意識を生み出すのか? 実は、ホーキング博士は前者、ペンローズ博士は後者の考え方である。果たして、前者でも後者でも、それは将来、高度なコンピュータが意識を持つ可能性を指し示している。(ロボットSFが現実的なものになる日は近い?)

ここでは、ペンローズ博士の論に即していきたいと思う。人間の意識は、量子論的な作用により、常にパラレルワールドに連関し、且つ量子テレポーテーションという時空を超える性質を原理的にもつ。意識は、パラレルワールドを生み出し、時空を超える可能性を持つのである。意識が時空を超えると言えば、近年のSF小説、東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』を思い出す。その世界では、意識が記憶と共にデータ転送される対象として扱われていた。(本来、意識をデータとして扱うことはペンローズ理論から導き出されないので、そこには本質的な矛盾があるのだけど。。)

映画の世界に戻る。
コルターの意識は、ショーンの記憶領域に転送されることにより、実は新たな世界(パラレルワールド)を生み出していた。ショーンがその世界で死ぬことにより、コルターの意識はそこでの体験と共に最初の世界に戻ってくる。これは俗に言うタイムトラベルに等しい。

意識は、パラレルワールドを生み出し、時空を超える。

次に考えるのは時間。時間とは何か。
これについては、橋元淳一郎の「時間理論」を参照したい。
「生命は機械である」という生命分子機械論は根強いが、生命と機械の決定的違いは、生命は生き残るために敵から逃げる、よりよい住環境を探すなど自ら進路を選択する主体的意思をもっていること。さらに相対性理論をひもといて、宇宙の時間はそもそも流れていない、生命の主体的意思こそが過去から未来への時間の流れを最初に創り出した。
橋元淳一郎 『時間について』

時間とは、意識の流れによってこそ生み出されるものである。それはどういうことか? 時間は意識のメカニズムそのものに従属する概念だということである。エントロピーの増大という因果律が生命の主体的意思を生み、それが時間の流れを作り出す。そもそも相対論的に言えば、時空間は一体のものである。ペンローズ博士も量子重力理論の「スピンネットワーク」という考え方の中で量子的なスピンの組み合わせによって時空という単位が構成されると言っている。

意識は、新しい現実を作り出す。
宇宙が人間を生み出す為の物理的定数を偶然に持っているということから、人間中心の宇宙の在り方について「人間原理」という考え方がある。これは「人間が世界を認識する」という認識論に基づくとも言われるが、その考え方自体、今や何でもアリのマルチバース宇宙によって習合されるだろう。
コルターの意識はショーンの肉体の中に新たに存在することになる。そういう世界。数多の世界の中のそういうひとつの世界になったということ。この世界はコルターの意識によって作り出された(観測によって収縮した)世界ではあるが、世界はコルターのものではない。

最後、運命について。
2回目の鑑賞で気が付いたこと。それは、コルターの8分間のミッション帰還時に現れる銀色のオブジェと最後に二人でそのオブジェを訪れるシーンはどういう関連があるのか?ということ。これは一種のデジャ・ブであるとすれば、それは一体何を意味しているのだろうか?
そこで僕が思い出すのが、同じくタイムトラベルを扱った映画『バタフライ・エフェクト』である。先の『バタフライ・エフェクト』のレビューで僕は「失われた記憶」こそが「運命」の由来だと書いた。
最後にクリスティーナがショーンとのつながりを「運命」と呟いたのは、彼女に「ビビビー」っと感じる何かがあったからである。クリスティーナと新しいショーンとの出会いを運命と認めるには、2人が「失われた記憶」によって結びつかなければならない。
コルターの意識をもったショーンは、クリスティーナと何処かで既に邂逅していた。それがマルチバースのパラレルワールドの何処かであるとすれば、その微かな記憶がデジャ・ブとして現れるにはタイムトラベルの経験とその記憶の忘却によってしかない。デジャ・ブはそういうことが実際にあったであろうことを示唆している、と言えないだろうか。(映画『デジャブ』でも似たようなシーンがあった)
ソースコード・プログラムの開始前にもコルターとクリスティーナの人生には幾多の分岐点があり、その中には既に先行して2人が付き合っている世界もあるということをこのデジャ・ブは暗示しているのではないだろうか。(その際のコルターはもちろん新しいショーンである)

『ミッション:8ミニッツ』の物語は、SF的な想像が深く広がる世界を提供してくれる。最後のストップモーションから動き始めた世界。この世界があるからこそ、この映画は面白い。そして、これまでのタイムトラベルものと違い、「意識」に焦点を当てた量子論的解釈の可能性により、新しいタイムトラベルの方法論を想像させるSF作品として、僕は最大限に評価したいのだ。

追伸:SFではないが、量子論のエッセンスと恋愛/人生観を融合させた映画を最近観た。ウディ・アレンの『人生万歳!』("Whatever Works "(2009) )である。これは最高だったなぁ。

by onomichi1969 | 2011-11-27 02:09 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

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