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semスキン用のアイコン01 加藤典洋 『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』 semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 09日

加藤典洋 『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』_a0035172_12531573.jpg『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』
カフカの言葉であり、加藤典洋の1988年に出版された著書の題名である。僕がこの印象的な表題作を冒頭に配した加藤典洋の評論集を読んだのは1991年頃。バブルの余韻の中で何かが変わり、そして、湾岸戦争によって世の中に不穏な空気が漂いだした頃である。
つまり、ここに簡明な比喩を用いるなら、吉本は北極の氷が融けて、世界の水位が上がり、いままで陸地だったところがいつのまにか大部分水没してしまったと、いっている。その領域を増しつつある海の部分と、日々広さを狭めつつある陸地の部分が、五対五、あるいは六対四で拮抗している間は、「社会」と人間の「内面」の対立は、現実的基盤をもっていた。しかし、水位がさらに上がり、人間の「内面」が「社会」に九割九分まで浸透され、覆いつくされるというような事態を前にして、なおも、もし小説家が人間の「内面」(孤独)と「社会」の旧来の関係式にそって小説を書くとすれば、その小説は、彼の生きる世界の全現実の残り一分を覆うにすぎない。またそのように小説を書きながらもし小説家が、自分の小説は自分の生きる世界の全現実に立脚していると思いみなすなら、彼は、彼の眼前にひろがる世界からそれと意識せずに眼をそらし、同時に深い自己欺瞞におちいっていることになるだろう。
それではこのような状況の中で人間の孤独はどこにいくか。それは残る。しかしそれは人間の孤独というよりは、人間のごく一部、九割九分の「社会」の浸透に追い詰められた一分の「内面」を覆うものとして、つまり、”たわいのない孤独”として、残るのである。
加藤典洋『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』
加藤典洋はその後、集大成的な評論集『ゆるやかな速度』の中で、カフカの『変身』(及び吉本隆明の「変成論」『マスイメージ論』)を引用し、自分(心と身体)が失われていく過程と、それを受け入れていかざるを得ない状況について、それは恐怖であるとともに、自分を縛っていたものがふわっと解けるような、そういう類の快感、「抗しがたい魅惑」でもあると評した。(快感原理は人類の進化を促す。。)

1991年は、いろんな意味で時代の分水嶺だったと今にして思う。フランシス・フクヤマが『歴史の終りと最後の人間』(The End of History and the Last Man)を著したのもこの時期である。

「歴史」とは、様々なイデオロギーの弁証法的闘争の過程であり、民主主義が自己の正当性を証明していく過程である。よって、民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わる。(フランシス・フクヤマ)

「最後の人間」は、ニーチェの概念である。「最後の人間」とは、(民主主義の勝利で)イデオロギー闘争が終わり、本質的なところで他人と争うことなく、価値相対主義の中に埋没して、気概を失ってしまった人間を指す。ソ連の崩壊を経た90年代初頭、ポップとマクドナルドと民主主義の勝利により、我々は「最後の人間」となったのである。

あれから20年。アメリカ人は、新たなイデオロギー闘争の火種を執拗に模索し、その気概を示し続けている。但し、そういった政治的な動きとは別に、世界を覆っているのは、「目的」を失った人々のアイロニーであり、ニヒリズムである。ポストモダンの中で、君は、世界に埋没し一体化したものとして、その差異のみとして、在る。

「根拠が失われた社会の中で、人はどのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」
これは、加藤典洋が、村上春樹の『ダンス ダンス ダンス』を評した際の言葉である。90年代以降、村上春樹は、世界で翻訳され、いまや世界感覚の作家として、各国から支持されている。

90年代初頭、僕は加藤典洋の本をよく読んだ。『アメリカの影』『ホーロー質』『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』『ゆるやかな速度』など。それは、たぶん、僕が村上春樹を好きで、加藤典洋が彼の批評をよく書いていたから。何故、当時、村上春樹であり、加藤典洋だったのか。その時の認識は、20年という時間を延長して今に続いているのだろうか。

僕の感覚で言えば、当時、それは僕の中で回収できないラディカリズムと共にあった。世界とのずれの中で自分自身の生き難さと共にあった。もちろん、それを表に出し続ければ社会では生きていけない。しかし、それを失えば、自分というものを失うのではないか。しかし、それは当時においても既に失われたものだったのであり、僕は加藤典洋の評論を通して、そのことにようやく気が付いたのである。

あるべきものがない、のではなく、ないことを自明として、また認識しつつ、真っ当に生きていく。その空っぽの中から生まれてきたのがオウムであり、サカキバラであった。善と悪の新しい地平の中で真っ当さをどう捉えたらいいのか。その有り得べき生き方こそが90年代(あるいは80年代)以降の文学的核心だったのだと僕は思う。しかし、今やそういう認識は「内面の喪失」の自明性故に、あまりにも当たり前な感覚として捉えられすぎている。それがこの20年の間に徐々に浸透していった水位の上昇から起こる必然であり、歴史の終わりの果てに現れた新しい世界の姿だと言っていいのかもしれない。

ということで、僕は、20年前の加藤典洋の著作を読み返してみたいと思う。そのことの理由として、思いつくままに。(八日目の蝉のレビューの補足として)

The answer, my friend, is blowin' in the wind. The answer is blowin' in the wind.
Bob Dylan "Blowin' In The Wind"

by onomichi1969 | 2011-07-09 01:03 | | Trackback | Comments(0)

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