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semスキン用のアイコン01 輪島裕介 『創られた「日本の心」神話』 semスキン用のアイコン02

  

2011年 05月 04日

a0035172_1912581.jpg『創られた「日本の心」神話』を読む。なかなか面白かった。

本書は、「演歌」が実は「日本固有」で「伝統的」な表現ジャンルではないこと、また、「レコード歌謡」と呼ばれていたものをいつ、誰が、どのような視点で「演歌」として概念化したのか、それがどのように流行し、どのような効果を持ったのか、について考察している。
従来、知識人から蔑視と非難にさらされてきたレコード歌謡が「演歌」ないし「艶歌」というキーワードによってその価値を否定から肯定へと反転させ、ある時期には一種の「国民文化」とまで目されるようになった。(本文より)
演歌の女王、美空ひばりがその死後に神格化され、彼女の歌が万葉以来の抒情/叙情を湛えた「日本の心」を体現した「演歌」であるという声が広く信憑されている。しかし、それは間違った認識ではないか、という疑問を著者は本書の冒頭で投げかける。
彼女はそのデビュー当時、低俗で退廃的というレッテルを張られ、雑多な海外音楽や民謡、芸者歌の要素を取り入れた流行歌の歌い手であり、『悲しい酒』や『柔』のような今では典型的な演歌調の曲(これらの曲は全盛期を過ぎた古賀政男と美空ひばりが初めて組んだものであり、実は当時流行の曲調を取り入れて、その後の演歌の定型となるものであるが、古賀メロディの特徴であるモダンさとは相容れないものであった)もあるが、彼女の幅広い音楽キャリアからすれば、演歌の女王などという演歌のレッテルに限定されるべきものではないという。それはどういうことだろう。
戦後のある時期まで、少なくとも「知的」な領域では、ひばりを代表とする流行歌は「悪しき」ものとみなされていたのが、いつしか「真正な日本文化」へとその評価を転回させたこと。
もう一つは、日本の流行歌の歩みは元来きわめて雑種的、異種混淆的であり、現在「艶歌」と呼ばれているものはその一部をなしてきたにすぎないということです。(本文より)

著者はこのような観点により、日本の流行歌の歴史(=連続体)を包括的かつ詳細に追いながら、いつどのような作為の中で「演歌」という言葉が生まれ、その意味がどのように「日本の心」に結びつくように変遷していったかを明らかにしていく。これって、フーコーの系譜学だよねと。

フーコーの系譜学とは、僕らが既に常識として思っていることにも実は「始原」があり、それが制度化されるプロセスを辿ることで世界のありようの「ほんとうのすがた」(構造)を明らかにする学問(知の考古学)である。彼は『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』で、そのような系譜学的アプローチによって、理性と狂気、あるいは正常と異常といった区分が17世紀から18世紀にかけて、西洋の知の体系からつくり出された産物であることを示した。そして『監獄の誕生』では、人間をコントロールする権力というもの、「支配-服従」の関係が暴力によって生まれるのではなく、相互の「見る-見られる」という関係を非対称に調整することで形成される自律的なシステムであることを明らかにした。ヨーロッパでの監獄や17世紀に発生したペストへの対処法を例にとり、空間の配分や視線による監視、記録と報告、相互の働きかけなど、それらネットワーク全体を「規律訓練のための装置」とみなし、それが可動するところに介在するはたらきを「権力」と呼んだ。人間を管理するには、相手を外側から暴力的に拘束するのではなく、「規律訓練のための装置」をつくりさえすれば、相手はそのメカニズムに介在している権力によって、自分自身を内側から拘束しはじめるのである。

フーコーは真理の概念について、「歴史のなかで長らく焼かれて、かたちを変えられないほど固くなっているので、もはや論駁できない種類の誤謬」と言っている。「演歌」という概念はたかだか40-50年ほどの歴史しかないが、既にそのような種類の誤謬となっているのではないか。『創られた「日本の心」神話』の著者はそう述べているように思える。

そういえば、僕が小さい頃、70年代中期の頃、演歌というジャンルはもっと限定的で流行物的な印象であったと記憶する。森進一や五木ひろし、都はるみ、八代亜紀などが体現していたもの。それはまだまだ若い創られた「日本の心」であった。それが80年代に美空ひばりの復活と演歌そのものの健全化があり、急速に日本の伝統に結びつきつつ、古来からの日本の心を綴る叙情となったのである。(その「何故」については、なかなか分かりにくく、ここでは言及しないけど、興味のある人は本書を参照されたし)

これは日本という国特有のことなのだろうか。フーコーは系譜学的アプローチによって、狂気や理性の本質や権力というシステムを発見したが、『創られた「日本の心」神話』の著者は、一体何を発見したのだろうか。日本文化の雑駁性なり表層性だろうか、マスコミの論調に容易に扇動されてしまう大衆性だろうか、それとも忘れっぽくて移ろいやすい日本的心性だろうか。いずれにしても、今の原発の問題しかり、僕らが当たり前と思っていたことも実は「始原」を辿れば全く確かではないどころか、とてもあやふやで危うい神話であるという現実は、日本において顕著であると言えるのかもしれない。
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by onomichi1969 | 2011-05-04 09:29 | | Trackback | Comments(0)

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