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semスキン用のアイコン01 内田樹 『街場のメディア論』 semスキン用のアイコン02

  

2010年 09月 08日

内田樹 『街場のメディア論』_a0035172_23502694.jpg久々のウチダ本。街場シリーズ最新刊の『街場のメディア論』を読む。マスメディア、出版文化、電子書籍、著作権について、、、僕は本書の内容をほぼ100%支持したい。(共感出来なかったのは、itunesへのダウンロード数が何万件もあったらやっぱりすごいと思うことくらいかな)

出版及びメディア関係者は必読、いや、必蔵の書だと思う。四の五の言わず本書を購入すべし、です。

特に「本」及び「書架」の本質については胸を突かれる言説が多くあり。内田樹は以下のように言う。
「僕たちは「今読みたい本」を買うわけではありません。そうではなくて「いずれ読まねばならぬ本」を買うのです。それらの「いずれ読まねばならぬ本」を「読みたい」と実感し、「読める」だけのリテラシーを備えた、そんな「十分に知性的・情緒的に成熟を果たした自分」にいつかなりたいという欲望が僕たちをある種の書物に配架する行動へ向かわせるのです」

「まだ読まれない書物」が日常的に切迫して、それは「理想我」として機能する。「私はこれらの本を読んでいる人間である」ということを人に誇示でき、また「私はこれらの本を(いずれ)読み終えるはずの人間である」と自分に言い聞かせて、自己教化の手がかりとする、のである。
「「本を読む人」にとって話はそれほど単純ではありません。選書と配架におのれの知的アイデンティティがかかっていると思っている人間にとっては、「今読みたい本」と「当面読む気はないのだが、いずれ読まねばならぬと思っている本」と「読む気はないが、読んだと思われたい本」は等価なのです。(中略)「いつの日かこの本を死活的に必要とする人間になりたい」という願望が僕たちを書物に向かわせる。ジェイ・ギャツビーの書棚の本たちがそうであったように、この世界に流通している書物のほとんどはその所有者によってさえまだ読まれていない。書物の根本性格は「いつか読まれるべきものとして観念されている」という点に存じます」

感動的な言説である。こういう文章を読むととても胸が震える。
僕自身、読む本は昔からすべて買うのが普通なのであるが、その1/5くらいは読まれずにほっておかれている。読んだ本は捨てないし売らない。本は全てカバー付きで背表紙に手書きでタイトルを書く。近年は蔵書も1500冊を超え、狭い居住空間ゆえに止む無く蔵書の半分はダンボールに入れて部屋の片隅に積まれている。それが如何に悲しいことであるか。。

書架に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのは自分自身である。自分からみて自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は自分自身の最大関心事なのである。そういう意味で読書とは、自身との緊密なコミュニケーションそのものであり、且つ、他者とのコミュニケーションを前景化した行為でもあるのだ。

『いつか読書する日』という映画がある。
この作品の題名と内容について、本書の上記のような言説を読むと、まるで霧が晴れるようにその意味が見えてくるようで。映画の主人公(田中裕子)の心情が読書(及び蔵書)という行為の指し示す意味を通して明らかになってくる。(詳細は以前のレビュー参照!)そういう意味で、読書(及び蔵書)と恋愛は似ているかも。

by onomichi1969 | 2010-09-08 23:50 | | Trackback | Comments(0)

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