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Rock and Movie Reviews : The Wild and The Innocent

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semスキン用のアイコン01東浩紀 『一般意志2.0』semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 18日

なかなか衝撃的な内容の本であった。

主要作しか読んだことがないけれど、東浩紀の本は、どれも斬新である。但し、その読後感はいつもどんよりとしていた。書いてある内容は説得的でいちいち納得するし、現状認識として正しいと思うけど、彼の描くデータベース消費とかゲーム的リアリズムといった概念の中に、僕は日本のアカルイミライが全く見えなかったのである。確かに、ポストモダンを経た日本の現代社会が人間の内面や大きな物語(思想)を必要としないデータベース型(小さな物語、断片の集積、その差異の戯れ、フラット、無思想)の社会となることを僕らは感傷の余地なく受け入れるべきなのかもしれない。でもそう簡単には割り切れるものでもない。認めたくないけど、認めざるを得ない。そういうダブルバインドな心情や、自己矛盾に耐える忍耐こそが僕らが社会に対して予って立つ視座(ある種のアイロニー)となっていたのではないか。

『動物化するポストモダン』、『ゲーム的リアリズムの誕生』という彼の代表的一般評論の流れの中に『一般意志2.0』はある。この本は東が「夢を語る」という表現で始まる。ルソーの『社会契約論』におけるターム「一般意志」の現代的な解釈から始まり、フロイト、グーグル、ローティ、ツイッターと語りつぐ。そこには確かに夢としての、動物化した現代人の特質を前提とした社会(データベース+アルゴリズムによる自動選択を優先する社会)の在り方が示されている。その論理は分かり易く、そこで描かれる夢のほとんどに僕は同意したい。同世代である彼の著作を読んで初めて晴れやかな気持ちになったから。

これまで柄谷行人や大澤真幸が語ってきたヒューモアやアイロニーという概念の延長線上に初めて現実の社会が見えたような気もする。その端緒がグーグルなり、ツイッターであったりすることに特に大きな違和感はない。ツイッターについては殆ど使いこなせていないし、その有用性についてあまり信用もしていないけど、それでも、今やインターネットのコミュニケーションなくして社会は成り立たないし、ネット社会の構造、その総体としての在り方(集合知)が如何に現代人の心性を基礎付けているかこそ今語られるべき哲学的主題なのだろう。東浩紀の著作の系譜として、ポストモダン後の現代思想の潮流がインターネットコミュニケーションと融合し、来たるべき社会の論理的根拠として結実していく過程は感動的ですらある。

この本は今後の社会学や哲学の方向性を決定づけるほどのポテンシャルを持っていると思う。政治とインターネットの融合など、提案そのものは凡庸かもしれないが、思想の現在進行形として、これまで薄ぼんやりとしていたアカルイミライがはっきりと見えたような気がした。

# by onomichi1969 | 2012-01-18 00:06 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01人生万歳!semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 17日

原題を”Whatever Works”、つまり「何でもあり」と言う。主人公はウディ・アレンを少し精悍にしたような役者ラリー・デヴィッド。これまでのウディ主演の主人公よりも性格は悪い。彼は、ノーベル賞候補にもなった物理学の元教授で頭が良く、上流階級で、知識があって、理論に勝る為、常に人を見下している。故に孤独でもある。

そんな主人公が尺取虫ほどの脳みその(と主人公が呼ぶ)若くて可愛らしい家出娘に一方的に惚れられて、彼女と結婚する。音楽を含めた趣味や生活観が全く合わないながらも、その違いこそが2人の関係を支える、まさに共依存のような間柄となる。お互いを思う気持ちがうまい具合にすれ違うことで2人はうまくいく。だから、彼女が知恵を獲得することで、2人の関係性はバランスが崩れ、最終的に破局するのである。

しかし、映画はそこで終わらない。何故なら「何でもあり」だから。恋愛とはそういうものだ。だからどうした。ウディにとって、人生の中の恋愛という可能性はいつまでも死なない。人生万歳! すごく晴れやかで、筋が通った、いい映画!

# by onomichi1969 | 2012-01-17 00:10 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01ブルーバレンタインsemスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 17日

厚生労働省が毎年発表している「人口動態統計の年間推計」によれば、2011年時点で、日本では3組の結婚に対して、1組の離婚が発生している。(ちなみに35年前までは10組の結婚に1組の離婚だった) この数値は10年前から変わっていないので、今さら驚くに値しない。離婚原因の1位は性格の不一致。所詮他人同士が一つ屋根の下で暮らすのだから、いろんな不一致はある。そんな不一致への不満が同居人としての気安さから我慢できないものとなり、衝突を生む。その繰り返しが2人の溝を深める。結婚の理想と現実、それは常にリアルなものとしてあるだろう。しかし、あるカップルで破局の原因となったことでも、あるカップルでは我慢できることもある。心理学的に言えば、「好き」は「嫌い」に容易に反転する。「好き」が「無関心」へとゆっくり移行すれば、家庭は平和になるのかもしれない。

『ブルーバレンタイン』が描くカップルの諍いは何を表現しているのだろう?お互いのプライドが共存の可能性を閉ざし、また学歴や職種の格差そのものが人生観/生活観の衝突を避けがたいものにする。恋愛のコツは相手を甘く見ること。そう言った女性作家もいたっけ。ある種の格差が共依存の関係を生み出し、まるで鋳型のようにぴったりとした相性となることもある。まぁそれはそれとして、僕は『ブルーバレンタイン』の描き出す夫婦の光景(ある意味で凡庸な出会いと諍いと別れのリアルな光景)にどのような意図があるのかがよく理解できなかったし、意図を超えた感動も覚えなかった。

旧来、ラブストーリーは、人々に恋愛という可能性を与え、家族を巡る物語(例えば小津映画)は、生活という類型を支えた。この映画のリアルが幻想や類型を否定してみせたとして、そのこころは? 一体何なのだろう? それもまた類型でしかない。

結局のところ、僕はこの作品に映画として心に響くものを感じることができなかった。

# by onomichi1969 | 2012-01-17 00:09 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01冷たい熱帯魚semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 17日

胸糞悪い映画。であると同時に心に響くものがあった。

この映画の登場人物達は皆、其々に設定されたキャラクターの演者である。僕は劇中でんでん演じる村田の姿を観て、昔のお笑いスター誕生当時の彼のひとり芝居を思い出した。彼は村田という登場人物が「村田」というキャラクターを演じるように芝居をしてみせる。だから彼の演技は不自然な程に芝居がかっている。それは、前作『愛のむきだし』の安藤サクラに匹敵する怪演、黒沢あすか演じる愛子も同じである。そして主人公も。まるで自己暗示のように誰もが自らをキャラクターで縛り、演じてみせる。そして、彼らは死ぬ間際になってようやく本当の自分を晒そうとするのだが、そこで今度は、「内面の自分」というキャラクターを、弱さ<強さ>として自ら認識した「自分」というキャラクターをまたしても否応なく演じてしまう。 いろんな意味でエグい映像であったが、本当にグロテスクだったのは、そういった人間の本質であり、村田が「内面のないやつはダメなんだ」と言って強がる、その自分の内面がマトリョーシカのようにどこまで行ってもキャラクターでしかない地獄のような空っぽさを曝け出したことであった。

そういう意味で胸糞悪く、心に残る映画であった。

# by onomichi1969 | 2012-01-17 00:08 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン012011年 映画ベスト10 semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 09日

2011年に上映された映画の私的ベスト10です。

1. 人生万歳!/ウディ・アレン
2. ミッション:8ミニッツ/ダンカン・ジョーンズ
3. 東京公園/青山真治
4. ブラック・スワン/ダーレン・アロノフスキー
5. 奇跡/是枝裕和
6. 八日目の蝉/成島出
7. 127時間/ダニー・ボイル
8. コンテイジョン/スティーヴン・ソダーバーグ
9. ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル/ブラッド・バード
10.探偵はBARにいる/橋本一
次点 ツリー・オブ・ライフ/テレンス・マリック

2011年のNo.1は、復活!ウディ・アレンでした。実は、彼の最新作"Midnight in Paris"も既に飛行機の中で観ているのだけど、これもいい! 但し、この作品は日本で未公開なので、評価は2012年度に取っておきます。

# by onomichi1969 | 2012-01-09 21:37 | ランキング | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01男はつらいよ 備忘録 その2semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 09日

寅さんシリーズも20作鑑賞。備忘録もその2です。あと10作程度はいこうかな。

1. 男はつらいよ 奮闘篇 (1971年) 第7作目
マドンナは知恵おくれの少女を演じる榊原るみ。チャップリンの『街の灯』を思い起こす一篇である。特に榊原るみを沼津駅で見送る場面は涙なしに観れない。寅さんの心情の暖かさを感じる。もちろん最後は振られてしまうので、『街の灯』とは全く違うラストなのだけど。。。ドタバタ劇の「おなら騒動」も最高に笑えたなぁ。森川信のおいちゃんのとぼけた味わいも最高。この時期の寅さんにハズレなし。

2. 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎 (1981年) 第27作目
とにかく松坂慶子の美しさに尽きる。全編を通して登場する為、その容貌や所作だけでも見応えが十分あった。弟の死を知り、彼の彼女と対面する場面は泣いた。(『寅さん』では殆ど毎回泣いてるなぁ) しかし、松坂慶子の結婚相手が美術の田中先生(『仙八先生』)とは。。。ちょっと拍子抜け。この回から満男役が吉岡秀隆に交代する。満男は僕と同世代なので、彼の成長していく姿を観ているだけで自然と懐かしさを感じてしまう。

3. 男はつらいよ 柴又慕情 (1972年) 第9作目
吉永小百合だなぁ。清楚で可憐。そして美しい。寅さんでなくても惚れるね。その結婚相手がひげ面のデブとはガッカリだ。それなら寅さんの方がいいのにと思うのだけど、最初から寅さんはアウトオブ眼中なのね。本作は13作目の『恋やつれ』に続くが、確かに吉永小百合も宮口精二も少し淡泊な印象で、続編に期待かなという感じ。それでも、この頃のハツラツとした寅さんは最高に面白いね。おいちゃんがこの作品から松村達雄に代わるが、寅さんとの絡みはなかなか派手で(多少暴力的なのだが)息の合ったところを見せている。

4. 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎 (1983年) 第32作目
竹下景子だなぁ。清楚で可憐、って前と同じだけど、博のセリフで言えば、「美しさの中に知性を秘めたとでも言いますか」、、、で、確かにお嫁にしたい。シリーズ中で人気のある作品だけあって、見応え十分。やはり最後の柴又駅のシーンが素晴らしい。竹下景子が寅さんの袖を掴み、その顔を潤んだ瞳でじっと見る。その視線に答えられない寅さん。これはシリーズ最高のラブシーンではないかと僕は思う。別れの後に「・・・という御粗末さ」とつぶやく寅さんのドテラの後姿が寂しい。あと10年若かったらなぁと。そんなラブシーンの始まりを予感してすっと脇に引くさくらの所作も彼女の複雑な感情が見え隠れしてなんとも言えない味がある。初期の頃とは違う落ち着いたとらやの雰囲気も良し。下條正巳のおいちゃんというのはあまり人気がないのだけど、でしゃばらない味わいはそれはそれで良し。

5. 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ (1974年) 第13作目
再び、吉永小百合です。9作目の柴又慕情の続きということで。今回も恋愛という点では寅さん最初からアウトオブ眼中。焦点は吉永小百合演じる歌子の自立と父親との和解である。そこに主に絡んでくるのは、寅さんではなく、今回はさくらと博である。この二人が本作品の立役者だろう。茶の間でのいわゆる「幸福談義」では博の言葉が光る。このころになると、博は監督である山田洋次の代弁者ともいえる存在で、今回のお題「幸福とはなにか」を理屈っぽく答える博に山田洋次の思いが重なるのである。(その対極は理屈ではない寅さんなのだろうけど) 最後のとらやでの歌子と父親(宮口精二)の和解のシーンは泣けた。シリーズで一番泣けるシーンだったかもしれない。あの宮口精二を泣かせるのだから、もうしょうがないね。
冒頭にタコ社長とさくらを連れ立って寅さんのお嫁さん候補に会いに行く場面があって、これはあっさりと振られてしまうのであるが、その相手が宮沢保のお母さん(『金八先生パート1』)というのが少し地味だったかなぁ。
松村達雄のおいちゃんはこの作品で最後。今回もなかなかいい味を出していて(パチンコ好きのちょっとやくざなおいちゃん、、)、ちょうどこなれてきたって感じだと思うのだけど、彼はおいちゃん以外の役で結構活躍しているから、このあたりが潮時だったのかな。彼はおいちゃんをうまく演じていたけど、おいちゃんそのものにはならなかったのだな。

6. 男はつらいよ 寅次郎忘れな草 (1973年) 第11作目
浅丘ルリ子演じるリリーの1作目。リリーは、寅さんが憧れるマドンナというよりも女版の寅さんとでも言うべき存在。だから寅さんは、彼女のことを自分の分身のように想う。これも寅さんの愛なのだ。この頃のとらやは茶の間談義が楽しい。今回は中流家庭とは、上流階級とは、ということについて話題になり、いつものように博の少々理屈っぽい意見(これは山田監督の意見なのだが)でしめる形になるのだが、今回はさくらが寅さんのことを「お金で買えないものをたくさんもっている」(それを「愛」だと表現したのは少し唐突だったけど)といって褒める場面が印象に残った。近年流行りの「プライスレス」の奔りが寅さんのライフスタイルなのである。まぁ、何だかんだ言って、寅さんのそういった生活を支えているのはさくらで、リリーへのフォローも、北海道の開拓農家(寅さんが2-3日働いてあまりの辛さになげだしてしまう)へのフォローも、寅さんの金銭面も、心の拠り所も、全部さくらが支えているのがこの一篇で分かるのだ。あと、ピアノ騒動は面白かったけど、何となくドタバタもパターン化してきた感じが否めないかな。

7. 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 (1982年) 第29作目
寅さんの悲恋物語。ドタバタもなく、いつもの寅さんとは全く違う雰囲気だったけど、この作品は、ある意味で寅さんとは何者か、実はどういう人物なのかということをしみじみと感じさせる素晴らしい一篇であった。寅さんは女性から本気で求められると、受け身になって、すっと自らを引いてしまう。そして自分を「駄目な男だ」と言って一人涙を流す。恋に恋して、恋できない臆病者。それが寅さんなのか。実に悲しくて寂しい話なのだけど、それでも僕は優しい気持ちになった。寅さんの流した涙を思い、12歳の満男と同じように悲しくて僕も泣いた。寅さん、あなたはただひたすら優しすぎるのだ。そういう愛があってもいい。決して駄目なやつではないのですよ。

8.男はつらいよ 寅次郎子守唄(1974)第14作目
前半、春川ますみが子供を引き取りにとらやにやってくるシーンが良かった。この回より、おいちゃんが下條正巳に変わって、とらやでのドタバタがかなり抑えられることになる。(ドタバタするのはタコ社長と寅さんくらいかな)下條のおいちゃんは前二人と違って真面目。それを察したのか、おばちゃんがところどころでお笑い担当となる。彼女の「あの、何てったっけ、ひげ中顔だらけの、ほら」というセリフは、森川信の「まくら、さくら」を思い起こさせた。
マドンナの十朱幸代は可愛らしいけど、この頃になると寅さんもあまり入れあげなくなって、あっさりと社会の服部先生(『金八先生』)に譲ってしまうのである。

9.男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980)第25作目
リリー3作目。毎度パターンの沖縄編という感じかな。ラストシーンも前回の変奏故に寅さんとリリーお互いを含めて、とらやの面々も僕らも、どうしようもなく予想通りのラスト。寅さんの「所帯を持つ」というセリフも現実感が乏しく、正に夏の夜の夢の如き一篇でした。

10.男はつらいよ 僕の伯父さん(1989)第42作目
『男はつらいよ』もいよいよ満男とゴクミを中心にしたシリーズに突入。満男もいつの間にか高校卒業、成長したなぁと言っても、この作品もう20年以上前なのね。(当時、『男はつらいよ』など観る気もしなかったのになぁ) 満男は僕と同世代。この作品の頃、僕は大学生で、彼と同じように無様な青春を謳歌しておりました。愚かだったなぁ。全くもって愚か。思い起こせば恥ずかしきことの数々。そんな自身の歴史を反省しつつ、満男に感情移入しておりました。ただ、満男と博の場面で、どちらかというと博の方に気持ちが寄り添うのは、僕自身が今年高校生の子供を持つ父親だから当然か。
寅さんも昔みたいな元気はないけど、まだまだ雰囲気は若い。老成しつつ、子供のような気持ちを持ちつづけているところが寅さんの魅力。その言葉はひたすら誠実なのです。会うは別れの始めか。。。時代はバブルだけど、とらやにそんな雰囲気は微塵もなし。

# by onomichi1969 | 2012-01-09 01:13 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01賀正 2012年semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 01日



あけまして おめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします


また忙しい年になりそうです。
今年も頑張ります。

by onomichi1969 @2012年 お正月

# by onomichi1969 | 2012-01-01 12:18 | お知らせ | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01増田俊也 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』semスキン用のアイコン02

  

2011年 12月 31日

今年の新刊書の中では一番面白かった。単行本サイズ2段組み700ページで読み応え十分、ハードとしても厚くて重い!通勤中に読むには結構つらかったが、殆ど一気に読んだ。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた不世出の柔道家 木村政彦の生涯を綴った評伝である。
格闘技ファンならば、木村政彦の名前を知らない者はいないだろう。鬼の木村、鬼の柔道と呼ばれ、柔道の公式戦で15年間無敗。寝技にも優れ、ブラジルでエリオ・グレイシーを破った男。そして、力道山との世紀の一戦、プロレスの喧嘩マッチで無残に敗れた男。しかし、世間一般に木村の名前はあまり知られていない。何故か? 輝かしい記録を持ちながら、プロ柔道やプロレスを経験したことにより、現在の講道館柔道の世界から排斥され続け、また力道山系譜のプロレス界からもその名前は殆ど抹殺されているからである。

その人生は破天荒であり、人間は豪放磊落であった。ただ己の強さのみを求め、柔道を究めた。格闘の技術の為には、空手をやり、ボクシングをやり、柔道を強化した。立ち技でも寝技でも最強。師匠で元全日本王者の牛島辰熊と共に「三倍努力」(人の3倍努力する)と称して一日9時間の激しい稽古を積んだ。ウェイトトレーニングによって養った超人的な筋肉と骨格、肉体表面を苛め抜いて得た痛みを感じない鋼の体。彼の技は正確で寸分の狂いもなく、乱取でも常に同じ動作を繰り返したという、まさに格闘ロボット。それが木村である。
169センチと小柄ながら、自分よりも大きな相手を叩きつけるような大外刈りで一瞬にして沈め、高専柔道仕込みの寝技で捻じ伏せた。今の階級重視の講道館柔道では考えられないが、小よく大を制し、晩年でも190センチ強の外国人選手を寝技で子ども扱いしたというが、ヒクソン・グレイシーを知っている今となってはその逸話も何ら違和感ない。

戦前の最強時代の木村。そして、戦後のプロ柔道時代からプロレスへの転向。エリオとの一戦。著者は資料を綿密に紐解き、関係者を隈なく当たり、そこで起こった事実を隙間なく叙述していく。それは戦前から戦中、戦後にかけての柔道(柔術、武徳会や高専柔道が廃れ、柔道がスポーツを唱える講道館派に集約していく過程)と戦後に興ったプロレスの歴史そのものとなる。これは木村を中心にした昭和初期の格闘技史でもある。その密度とボリュームからしてこの本は第一級のノンフィクションと言えよう。僕は格闘技が大好きでありながら、このような歴史の詳細を殆ど知らなかったので、大変興味深く、柔道やプロレスと政治、経済界、やくざとの関わりについても面白く読んだ。

実は、この本を読んで、木村政彦という人間を理解できたかというと、その答えはノーである。結局のところ木村とは何者だったのか。格闘ロボット。彼は、単純にして巨大な暗闇であった。ただ強さのみを究めた暗闇である。ただ、格闘以外の場面では、人間的な魅力に溢れ、多くの人に印象を残し、そして慕われた。彼の私生活のエピソードは、えげつないものが多く、今のテレビであれば殆どが放送禁止である。彼は一生を通して、悪ガキであった。多くのやくざと付き合い、酒を飲んでは喧嘩をし、外国に行けば女を買いまくった。プロレスでひと稼ぎして、経営していたキャバレーでどんちゃん騒ぎをする。ただ、柔道の真剣勝負となると人が全く変わった。今やこういう人物は表舞台で生きていけまい。生死を賭した格闘(敗けたら死ぬつもりで切腹の練習をしたという)と磊落な私生活。とにかく、彼は人間として極端であり、大きすぎたのだ。

理解を超える、理解を拒むこと自体に人間の本質があり、その人間がここにいるのだ。
木村政彦は、思想的な信条の全くない現代的で空っぽな人間であり、柔道とプロレスにおいて、極限の栄光と挫折を経験した。20代前半で強さを究め、その後を余生と見做した。食うために始めたプロレスで金を覚え、全くの油断(それが力道の八百長破りとしても)から力道山に敗れた。プロレスが視聴率100%だった時代、KOされた柔道王 木村の名声はガタ落ちし、その人生は奈落の底に突き落とされたのである。プライドはズタズタとなったに違いない。それでも生きていく為の混沌の中でただ生を全うし続けた。晩年は拓大での柔道指導に自らの生活を捧げた。

「人生には2つある。学ぶ人生とその後の人生」 映画『ナチュラル』のヒロインが主人公に言った言葉を僕は思い出す。彼の人生は、戦前と戦後ではっきりと二極化しつつ、特に戦後以降は混沌としているのだ。

この本の読後感は、加藤典洋の『アメリカの影』に似ていると感じた。『アメリカの影』は、江藤淳とは何者か、その言説を丹念に追うことで戦後日本の(アメリカの傘の下にある)言語空間を描いた評論でもある。アメリカに反発しつつ、そのあからさまな反発にも反発する。二律背反。セメントとフェイクが混沌としている。その言説は真実なのか、アングル(作り話)なのか。そもそもその生き方に真実はあるのか。世間に対して自らがダブルバインドな状態であることへのナイーブな心情が伝わってくる。そして晩年の閉口。真実はいつも語られない(が故に真実となる)。胸が締め付けられるような感覚が残った。

最後に、戦前の木村の柔道は、現代の講道館柔道と全く違うということが再三書かれている。確かに今、柔道を辞め、総合格闘技に身を置く選手はたくさんいるが、彼らは柔道の技術によって戦うというよりもトップアスリートとしての身体能力を武器にキックを習い、寝技を習い、総合格闘技の舞台に立っているという理解が正しい。僕らは柔道家の戦いがボクシングやキックに終始しているという試合を何度も観ている。しかし、木村は違った。彼が柔道として会得した技術を持って、エリオと戦い、そして圧倒したのである。武道とは何か。格闘技とは何か。柔道とは本来何であったのか。この本を読み、失われたものに思いを馳せた。

# by onomichi1969 | 2011-12-31 12:29 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01男はつらいよ 備忘録semスキン用のアイコン02

  

2011年 12月 17日

寅さんシリーズを観始めて10作目。同じパターンの作風にそろそろ何がどれだか分からなくなってきたので、せめてミニコメントを残して備忘録にしておこうと思う。

1. 男はつらいよ(1969)第1作目
記念すべき第1作目。さくらと博の結婚披露宴のシーンは泣けたなぁ。志村喬の朴訥なスピーチに寅さん同様号泣だった。さくらの見合い後の(まだお約束って感じでない)渾身のドタバタが最高。最後、上野駅での別れのシーンも(初回故に少々くどいけど)しみじみ。『男はつらいよ』という定型の原点であり、ギネス記録となるシリーズの第1作に相応しい深~い作品である。

2. 男はつらいよ 寅次郎相合傘(1975)第15作目
寅さんとリリー(浅丘ルリ子)の2作目の共演。シリーズでは人気が高い作品。メロン騒動が寅さんのドタバタ劇の中でも秀逸だけど、やっぱり最後の寅さんとリリーが結婚かという場面で、じわっと盛り上がって、すうっと引いてしまう心の機微には悲しくてグッときた。

3. 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976)第17作目
マドンナの太地喜和子が可愛らしい。彼女の金銭トラブルを解決しようと、思いは必死だけど、金のない寅さんにはどうしようもできない。これはつらい。でも最後は画家先生に思いが通じてよかった。人徳は大事なのね。寅さんの男気に感動した一篇。

4. 続男はつらいよ(1969)第2作目
マドンナ役、佐藤オリエで、金八先生を思い浮かべるのは僕らの世代。寅さんの学生時代の先生、東野英治郎(黄門様)も味がある演技だった。茶の間の騒動、マドンナに振られて終わるパターンも本作で確立したって感じ。

5. 男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971)第8作目
これは傑作。泣けたなぁ。最後の縁側のシーン。池内淳子親子を思いやる寅さん。自分では彼女を幸せにできないと自ら身を引くところはこれまでと違う大人の味わい。再登場の志村喬が最後に博夫婦に会いに行くところも良かった。志村喬の寅さんへの説教「りんどうの花」。これを受け売りにする寅さんの口上が笑わせる。この作品で初代おいちゃん森川信が最後の出演となるのだが、まさか本当に死んでしまうとは思っていなかったのだろう。作品のいろんなところでおいちゃんの死を暗示させるセリフが多かったような気がする。「ばかだね~」「俺しらねぇよ」「まくら、さくら」最高です。寅さんの「きっちゃてんでこーしー」ってのも笑ったなぁ。寅さんと森川信の最後のドタバタ。さくらの「母さん」の歌も泣けた。寅さんの人柄をあらわす旅一座との交流もあって、見せ場てんこ盛りの一作。

6. 男はつらいよ 知床慕情(1987)第38作目
三船敏郎の晩年の傑作と言っていいだろう。やもめの獣医役。いかにも「男は黙ってサッポロビール」って感じの役柄なのだが、最後に勇気の告白をやらせちゃう。そうきたか。その相手が淡路恵子というのも黒澤へのオマージュなのだろう。

7. 男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972)第10作目
八千草薫のお千代さん。いいね。寅さんの幼馴染ということで、いつものように寅さんがマドンナにのぼせ上がる代わりにインテリ助教授(米倉斉加年)にその役回りをさせるという。お千代さんと寅さんは、結構相性がよかったのではないかな。めずらしく寅さんがマドンナを振ってしまうというパターンでした。

8. 男はつらいよ 望郷篇(1970)第5作目
テレビシリーズでさくらを演じた長山藍子がマドンナ。その彼氏もテレビで博役だった井川比佐志。寅さんが井川のことを博に似てると何度も言うのだけど、そりゃそうだ。同じ山田作品『家族』『故郷』で井川比佐志と前田吟は兄弟だったんだもんね。その時は井川が倍賞千恵子の旦那だったというところも錯綜していて面白い。
真面目になろうとする寅さんが語る「額に汗して、油にまみれて働く、、、」というのがさくらの寅さんに対する説教の受け売りだというのが笑える。

9. 男はつらいよ 純情篇(1971)第6作目
若尾文子のマドンナ。あいかわらず綺麗。綺麗すぎて、とらやに全くマッチしていないw この違和感は致し方ないかな。とらやではハチャメチャな寅さんも、地方にいくとすごくいい人。人情を感じるねぇ。宮本信子が若い。森繁じいとの絡みをもっと見たかったな。

10. 男はつらいよ 寅次郎物語(1987)第39作目
前作に続き、後期の傑作。このころになると、寅さんというのは作品の主人公というよりも、ひとつの「舞台装置」と言ってもいい存在となる。その舞台の中で、寅さんと接することで、秋吉久美子や五月みどりの息子たち登場人物が何か心暖かいものを得て、人として快復していくのである。
最後の満男と寅さんの会話。満男「おじさん、人間ってさ」 寅さん「人間?人間どうした?」 満男「人間は何のために生きているのかな?」 寅さん「うん、まぁ、難しいこと聞くなぁ。えー、何ていうかな、ほら、あぁ生まれてきてよかったなぁって思うことが何べんかあるじゃない。ね、その為に人間生きているんじゃないのか?」 満男「ふ~ん」(納得したようなしていないような微妙な表情) 寅さん「そのうちお前にもそういう時が来るよ。うん?まぁ、がんばれ、な!」(と満男の肩をポンと叩き、一人駅に向かう悠然とした後姿)
その後のシーンで寅さんが「人間は何のために生きているのか」と仲間の一人に尤もらしく問うという、いつもの受け売りパターンがあり、ついに満男からもパクるのかと。でも、いいシーンだなぁ。

つづく

# by onomichi1969 | 2011-12-17 18:50 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01ラブ・アクチュアリー "Love Actually"semスキン用のアイコン02

  

2011年 12月 17日

クリスマスが近づくと思いだす映画『ラブ・アクチュアリー』。素敵なロマンティック・コメディですね。

冒頭でヒュー・グラントがナレーションで呟く”Love actually is all around.”がタイトルとなっていますが、この場合のLoveは恋愛というよりも、広義の「愛」でしょう。確かにこの映画の群像劇では、いろんな形の「愛」が描かれます。英首相の身分を超えた恋愛であり、幼い恋愛であり、言葉を超えた恋愛であり、肉体を超えた恋愛であり、肉体の恋愛であり、親友の彼女への横恋慕であり、大人のちょっとした火遊びであり、家族愛であり、姉弟愛であり、男同士の友情であり、、、。最後の方もやっぱりLoveなんですよね。ある意味で恋愛という幻想を超えた現実的なLoveです。それもいろんな形としての。

恋への勇気を描いた映画という評価もあるけれど、僕にはどちらかと言えば、「愛」という言葉の広がりというか、その大きさと共にミニマルさを感じさせる映画に思えます。ビートルズの”All Need is Love”が挿入歌として有名ですが、僕にはラストに流れるビーチ・ボーイズの”God Only Knows”が心に響きます。「君」は、デブのマネージャーでもあり、幻想の君でもあるのです。遠く離れて、同じ月を見ている愛しの彼女を思い出しつつ、その愛に支えられている自分を感じ、それを伝えたくなるのです。

If you should ever leave me
Well life would still go on believe me
The world could show nothing to me
So what good would living do me
God only knows what I'd be without you

もし君が僕から去るなんて事が起きたら
人生はそれでも続くけど 信じてほしい
この世は何の価値も示さない
生きる事に何の良さがあるんだい?
神のみぞ知る 君がいないと僕がどうなるか

The Beach Boys “God Only Knows”

# by onomichi1969 | 2011-12-17 02:10 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01男はつらいよsemスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 28日

いやー、泣いた。笑った。楽しんだ。
20年ぶりの葛飾柴又への帰郷から始まる寅さんシリーズ(映画)『男はつらいよ』第一作目。
渥美清の寅さん登場。これが若い。祭に飛び入り参加して纏(まとい)を手に威勢よく踊りまくるのだけど、これがなかなかカッコいいのだ。テキ屋の売の口上も最高にキマっている。倍賞千恵子のさくらちゃんはとても可憐だし、前田吟の博も精悍だ。
寅さんと博の船上での張り合いはなかなか緊張感のあるシーン。会話がすれ違いつつ、何故か噛み合うという絶妙さがとても楽しく、寅さんの寅さんたる所以がよく分かるシーンでもある。博は、職工ながら大学教授の父親を持つ理知的な人物で、尚且つ腕っぷしの強さを秘めているという、若き前田吟がなかなか役に合っている。(最後の涙も感動的だった)

寅さんのおせっかいが逆に功を奏して、さくらちゃんと博がめでたく結婚し、その結婚式に博の父親、志村喬が現れる。家を飛び出した博とは8年ぶりの再会、そして披露宴の最後に挨拶。志村喬の朴訥としたスピーチに寅さんと博同様に僕も号泣;;(ヒック、ヒックしちゃったよ)

この披露宴で、御前様の笠智衆と博の父親役の志村喬が同じ画面の中にいるのです。それだけで感動的なのだなぁ。とても素晴らしいシーン。

# by onomichi1969 | 2011-11-28 00:32 | 日本の映画 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01ミッション:8ミニッツ 再びsemスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 27日

『ミッション:8ミニッツ』2回目の鑑賞は映画館で。

『ミッション:8ミニッツ』の作品概要については、前回のレビューを参照。今回は、もう少し深くその世界に入ってみたい。

「ソースコード」とは、開発者ラトレッジ博士の最初の説明によれば、ある事件で死んだ人間の最期の8分間の記憶にアクセスし、そこでの追体験をフィードバックすることにより事件の真相に迫るというプログラムである。だから、これは既存記憶へのアクセスであり、その記憶によって紡がれるのはあくまで仮想現実でしかない。ラトレッジ博士もこれはタイムトラベル(パラレルワールド)ではないと断言している。彼が思わせぶりに持ち出す量子物理学というタームは、おそらく意識の転送を含めた情報処理に量子物理学の理論が応用されていることを示唆したものだと推測される。

そもそも意識を科学的に取り扱うということはどういうことなのだろうか。
ブラックホールの蒸発理論でスティーブン・ホーキングと共に名前を連ねる宇宙物理学者であり、数学者でもあるロジャー・ペンローズは、近年、意識を科学的に解明する研究を発表した。意識は、量子重力理論(量子論と相対論の融合)により解明できると言う。
従来の分子生物学によれば、脳内の働きは全てシナプスを起点とした電気信号(イオン化)により説明される。しかし、単純な電気信号の連なりがどのように瞬時で膨大な広がりを持つ意識を生み出すのか、或いは先行する意識がどのように電気信号と結びつくのか、その辺りは全く分かっていない。
ペンローズ博士によれば、意識は神経細胞内のチューブ状の器官の中における量子力学的作用によって発現するという。その領域の物理学的作用は、シュレディンガーの波動方程式による量子の振る舞いによって説明される。それは必然的に量子論の世界で常に問題となる波動方程式の収縮(確率論的に偏在する量子の位置が観測によって1点に収縮する)と電子スピンに関連する量子テレポーテーション(量子もつれの関係にある2つの量子のうち一方の状態を観測すると瞬時にもう一方の状態が確定する)の二つの興味深い現象が関連してくるということなのだ。
※量子テレポーテーションについては最近東大で従来の思考実験を実験系によって検証したとのニュースが記憶に新しい。今後は量子コンピュータの分野に応用されるとのこと。それはそれ。

波動方程式の収縮については、「観測問題」に由来するいくつかの解釈がある。波動方程式における量子の重ね合せ、その確率論的存在、シュレディンガーの猫における「生きている猫」と「死んでいる猫」の両方が並行に存在し得るという考え方があり、それが量子論における「多世界解釈」、つまりパラレルワールドの理論的根拠となっている。近年、ホーキング博士はこの理論に執心し、宇宙がマルチバースであるということを最新著書で繰り返し述べている。

量子論は、波動方程式の収縮、「観測問題」故に必然的にパラレルワールドに結びつくのである。

それともうひとつのキーワード、量子テレポーテーション。一方の量子のスピン状態の観測により、もう一方の量子のスピン状態が瞬時に(時空を超えて)決定できる。これも量子論により必然的に考慮され得る原理である。

分かりますか?
意識が量子物理学によって記述されるということは、必然的にパラレルワールドと量子テレポーテーションという現象に連関するのです。これはどういうことを意味するのだろうか?

映画の世界に戻る。
コルターの意識は、ショーンの記憶領域に転送されることにより、実は新たな世界(パラレルワールド)を生み出していた。ショーンがその世界で死ぬことにより、コルターの意識はそこでの体験と共に最初の世界に戻ってくる。これは俗に言うタイムトラベルに等しい。

意識は、パラレルワールドを生み出し、時空を超える。

次に考えるのは時間。時間とは何か。
これについては、橋元淳一郎の「時間理論」を参照したい。
「生命は機械である」という生命分子機械論は根強いが、生命と機械の決定的違いは、生命は生き残るために敵から逃げる、よりよい住環境を探すなど自ら進路を選択する主体的意思をもっていること。さらに相対性理論をひもといて、宇宙の時間はそもそも流れていない、生命の主体的意思こそが過去から未来への時間の流れを最初に創り出した。
橋元淳一郎 『時間について』

時間とは、意識の流れによってこそ生み出されるものである。それはどういうことか? 時間は意識のメカニズムそのものに従属する概念だということである。エントロピーの増大という因果律が生命の主体的意思を生み、それが時間の流れを作り出す。そもそも相対論的に言えば、時空間は一体のものである。ペンローズ博士も量子重力理論の「スピンネットワーク」という考え方の中で量子的なスピンの組み合わせによって時空という単位が構成されると言っている。

意識は、新しい現実を作り出す。
宇宙が人間を生み出す為の物理的定数を偶然に持っているということから、人間中心の宇宙の在り方について「人間原理」という考え方がある。これは「人間が世界を認識する」という認識論に基づくとも言われるが、その考え方自体、今や何でもアリのマルチバース宇宙によって習合されるだろう。
コルターの意識はショーンの肉体の中に新たに存在することになる。そういう世界。数多の世界の中のそういうひとつの世界になったということ。この世界はコルターの意識によって作り出された(観測によって収縮した)世界ではあるが、世界はコルターのものではない。

最後、運命について。
2回目の鑑賞で気が付いたこと。それは、コルターの8分間のミッション帰還時に現れる銀色のオブジェと最後に二人でそのオブジェを訪れるシーンはどういう関連があるのか?ということ。これは一種のデジャ・ブであるとすれば、それは一体何を意味しているのだろうか?
そこで僕が思い出すのが、同じくタイムトラベルを扱った映画『バタフライ・エフェクト』である。先の『バタフライ・エフェクト』のレビューで僕は「失われた記憶」こそが「運命」の由来だと書いた。
最後にクリスティーナがショーンとのつながりを「運命」と呟いたのは、彼女に「ビビビー」っと感じる何かがあったからである。クリスティーナと新しいショーンとの出会いを運命と認めるには、2人が「失われた記憶」によって結びつかなければならない。
コルターの意識をもったショーンは、クリスティーナと何処かで既に邂逅していた。それがマルチバースのパラレルワールドの何処かであるとすれば、その微かな記憶がデジャ・ブとして現れるにはタイムトラベルの経験とその記憶の忘却によってしかない。デジャ・ブはそういうことが実際にあったであろうことを示唆している、と言えないだろうか。(映画『デジャブ』でも似たようなシーンがあった)
ソースコード・プログラムの開始前にもコルターとクリスティーナの人生には幾多の分岐点があり、その中には既に先行して2人が付き合っている世界もあるということをこのデジャ・ブは暗示しているのではないだろうか。(その際のコルターはもちろん新しいショーンである)

『ミッション:8ミニッツ』の物語は、SF的な想像が深く広がる世界を提供してくれる。最後のストップモーションから動き始めた世界。この世界があるからこそ、この映画は面白い。そして、これまでのタイムトラベルものと違い、「意識」に焦点を当てた量子論的解釈の可能性により、新しいタイムトラベルの方法論を想像させるSF作品として、僕は最大限に評価したいのだ。

追伸:SFではないが、量子論のエッセンスと恋愛/人生観を融合させた映画を最近観た。ウディ・アレンの『人生万歳!』("Whatever Works "(2009) )である。これは最高だったなぁ。

# by onomichi1969 | 2011-11-27 02:09 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01バタフライ・エフェクトsemスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 25日

yahoo!映画サイトの『ミッション:8ミニッツ』のいくつかのレビューの中で、「似ている作品」として挙げられていて、少し気になっていたのでレンタルDVDで鑑賞。予想通りと言えば、その通りなのだけど、そもそもこの2つの作品をSF的な視点で同列に比較すること自体がナンセンスだと感じた。

『ミッション:8ミニッツ』は、タイムトラベルの原理そのものへの言及があり、その点に想像力が深く及ぶ内容となっていて、いわゆるハードSFというジャンルに分類され得る映画である。それに対し『バタフライ・エフェクト』はタイムトラベルそのものが主題ではない。タイムトラベルは単なる道具立てであって、主題は別のところにある。それはデイゼル・ワシントン主演のサスペンス映画『デジャブ』も同じだし、ビル・マーレイの『恋はデジャ・ブ』に至っては同じ1日の中に閉じ込められるという設定そのものの面白さをベースとした恋愛コメディである。(それはそれでとても面白いのだけど) また、『バンテージ・ポイント』はタイムトラベルでも何でもない。『ミッション:8ミニッツ』をそれらの作品と比較して、優劣を論じる趣があるのだけど、どうしてそういう発想が出てくるのか僕には分からない。いずれにしても、『ミッション:8ミニッツ』の何が新しくて、何処に面白さがあるのか、それについては改めて述べてみたい。そこにはタイムトラベルを主題とした時間と意識をめぐる一つの可能性(量子論的可能性)が示されていると僕は思う。

それはそれ。

『バタフライ・エフェクト』もなかなか面白い作品であった。但し、世界が変わる毎の主人公の行動があまりに唐突だったり、幼稚だったり、かなりイライラしながら観たのも事実である。振幅の違う世界を生み出すきっかけとして、ある種の手違いは物語の必然なのかもしれないけど。

この映画の最も秀逸な点は、ラストシーンにある。主人公は、彼女と出会わない世界をあえて選択し、その世界が彼女にとっての最も理想的な人生であることを確信する。彼にとっては、彼女を愛するが故の究極の選択である。数年後、彼は、都会の雑踏の中で彼女らしき人物とすれ違う。彼と彼女は、失われた記憶の中にお互いを認め、微かなときめきを覚える。ある種の既視感(デジャブ)が二人を捉える。

このラストシーンは、村上春樹の短編小説『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(以下、『100%の女の子』)に似ている。
その後、彼と彼女は再びめぐり逢い、付き合い始めることになるのであろうか? 『100%の女の子』は、結局のところ二人がお互いを認識できずにすれ違い、行き過ぎる場面で終わる。『バタフライ・エフェクト』も同様であろうか。
僕の答えは、『100%の女の子』の二人がその後運命的に出逢う可能性があるのに対し、『バタフライ・エフェクト』の二人にはその可能性がない、である。その違いこそが「宿命」であり、「運命」の由来である。ときめきは失われた記憶から立ち上がり、事実として思い出された瞬間に押し止められてしまうのだ。

「失われた記憶」と「運命」と言えば、思い出す映画がありますよね。そう『エターナル・サンシャイン』! 記憶が失われて、二人は運命的に出会う。

「失われた記憶」こそが「運命」の由来。映画は、その出自を辿る物語。そう考えれば、彼と彼女が出会った時、二人の記憶をよぎる微かな瞬き(第一印象で「ビビビっ」とくるアレですな)、「第一印象で決めました」というのは、実に有意なのだ。失われた記憶の幻影(の可能性)故に二人は惹かれあうのだから。
運命とか宿命とかいう言葉は、科学的に説明不可能な概念である。もしそれが実際的な由来として現実的に有り得るのだとすれば、それは『エターナル・サンシャイン』や『バタフライ・エフェクト』のような物語として構築化され得るのではないだろうか。それが現実的であるかどうかは別にして、そういうアイディアは物語としてすごく有意だし、僕なんかは可能性に満ちた想像力を掻き立てられて、ちょっとドキドキして、そこはかとなく楽しい。

そう思いませんか?

# by onomichi1969 | 2011-11-25 22:29 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01ステキな金縛り ONCE IN A BLUE MOONsemスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 07日

笑いのツボという点では、今回の作品はあまりハマらなかった。
なんというか、ギャグが大雑把で大振りすぎて、空回りも多かったように思う。(映画の中でも「笑えない」ってセリフがあったけど、こっちがそれを言いたい気分だったよ) タクシー運転手の生瀬勝久や裁判長の小林隆のキャラは少しツボだったけどね。あれは笑えた。

この作品を観ている最中にイライラしたのは、有り得ない設定を納得させてしまうような展開の面白さが全くなかったということ。幽霊を法廷の証言台に立たせて、裁判を行うという設定を強引に進めていくのだけど、展開にリアリティがない、、、のは当然として、妙味がなくひねりも効いていない。最後に死んだ被害者を法廷に呼ぶという展開は唐突すぎるし、そこにストーリーテリングとしての驚きがない。そもそも、三谷幸喜にストーリーテリングの面白みは期待できないのだろうか。それは前作『マジック・アワー』でも同じだった。ディテールは面白くて結構笑えたのだけど。

コメディ映画としてみれば、彼の作品の中では、やはり『ラヂオの時間』が秀逸だったなぁ。この作品にはかなり笑わせてもらった。細やかな笑いの連続。意外性。ちょっとしたハラハラドキドキ。畳み掛けるような展開。それをコメディ映画と言うならば、完璧な内容だ。

笑えるコメディ映画としては確かに作りが大雑把でくだらなさが目に余る、、が、本作はこれまでの三谷作品の中で最も感動的だったとも言える。実のところ、ラストシーンで僕は泣きっぱなしだった。(40歳を過ぎて涙腺がかなりゆるくなったのも事実だけど) これまでの彼の映画でこんなに泣ける作品はなかった。もしかしたら、この路線が彼の目指すところなのかな。そういう映画としてみれば、僕はこの作品にそれほど文句もないのである。その路線に見事にハマってしまったのだから。。。うるうる

# by onomichi1969 | 2011-11-07 01:06 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01はっぴいえんど 『はっぴいえんど』(1970)semスキン用のアイコン02

  

2011年 10月 15日

はっぴいえんどの代表作。日本語ロックの礎と言えば、2ndアルバム『風街ろまん』(1971)である。
ロックの「うた」というのは、英語の語感でこそノリが出るものであり、そもそも日本語の発声でロックを歌うことができるのか?1960年代後半、日本のロックバンドはそんな岐路に立っていた。そして、FLOWER TRAVELLIN’ BANDはジョー山中を擁して英語を選択し、はっぴいえんどは松本隆という天才を擁して日本語を選択する。

日本語で本格的なロックを歌うという暴挙。それがひとつの形として纏まった作品。西洋のメロディとリズムに日本語の歌詞を乗せる。今では当たり前のJ-POP/J-ROCKの始源であり、その後の日本のロックに大きな影響を与えた作品。それが『風街ろまん』である。今、はっぴいえんどの曲と言えば、『風をあつめて』や『空色のくれよん』、『夏なんです』などを思い浮かべるだろう。日本語の歌詞を噛締めるように歌う落ち着いたミドルテンポのロックは、その後の日本のロックのイメージを方向づけるものであり、はっぴいえんど解散後の大瀧詠一、細野春臣のソロや70年代後半のニューミュージックへと繋がっていく。(ニューミュージックはそもそも彼ら2人で作り上げたものだ。山下達郎や荒井由実を世に出したのも彼らだし)

はっぴいえんどの歌詞の殆どは松本隆によって作られた。いわゆる「ですます調」の語りで、それがはっぴいえんどの音楽の特徴ともなっている。日本語の文体には、それ以外にも「である/だ調」もあるし、「だぜ調」や女性言葉の「だわ調」もある。ロックであれば、反抗的な「だぜ調」<ブルース・クリエイションやキャロルとかね>を採用するのが普通の文体だと思うが、それを敢えて「ですます」調で完成してみせたことがその後の日本のロックに大きな可能性を与えたのだと思う。「ですます」調に合う日本独自のロックという形。それが洋楽ロックとは違う日本語ロックというひとつの文体となり、70年代後半に様々な形へと派生していくのである。但し、「ですます」調文体そのものはロックというよりも歌謡曲に受け継がれることになる。松本隆自身が歌謡曲の歌詞を多く手掛けるようになるのだから、それも自然なことなのだと思うけど、「ですます」調ロックが25年後のサニーデイ・サービスによって復活した時には、時代背景の違いもあって、とても新鮮に感じられたのである。

日本語ロックの金字塔『風街ろまん』に比べれば、彼らの1stアルバム『はっぴいえんど』(1970)は、全体的に荒々しい。それは69-70年頃の最先端のロック、CSN&Yやウッドストック系の音楽そのものであり、そこに日本語の歌詞を無理やり乗せているようにも思える。
彼らの選択そのものは画期的ではあったけど、何かアンバランスであり、未完成(型破り)な印象もある。だからこそ、いくつかのバンドがはっぴいえんどの日本語ロックに反発し、そして、2ndアルバムがあのような形で方向づけられたのだと思う。

但し、個人的には、『はっぴいえんど』は一番好きなアルバムである。
とにかく演奏で聴かせるアルバムで、特徴あるベースライン、ギターの音もカッコよく、アンサンブルが素晴らしい。ポエムリーディングなど遊び心が満載で、アルバム自体に気負いと共に気安さも感じる。型にハマりきれない故の戸惑いもあったのだろう。楽曲やアレンジは西洋文化であるロックの模倣であるからこそ、日本語でうたをうたうのだという固い意志。「さよならアメリカ、さよならニッポン」だ。結局のところ、最もロックらしいロックは、1stアルバムで最後となる。

はっぴいえんどは、3rd『HAPPY END』(1973)でさらにポップになっていく。ヴァン・ダイクのプロデュースなのでそうなるのは必然なのであるが。そこにこそ、時代と格闘した彼らの確信的意志、オーバー・ザ・洋楽ロックという一本芯の通った筋道を感じるのだ。


# by onomichi1969 | 2011-10-15 21:17 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01サニーデイ・サービス 『サニーデイ・サービス』(1997)semスキン用のアイコン02

  

2011年 10月 14日

サニーデイ・サービスを初めて聴いたのは、95年頃。シングル『青春狂走曲』がスペースシャワーTVでベビロテされていて、すごく耳に残った。そして、『恋におちたら』。この曲は、胸がキュンとなるような歌詞と旋律に、軽やかだけど、ずんと響くベース音。心地良いようでいて、ずしりとした質量を感じる曲だった。アルバム『東京』はこの2曲が傑出していると思う。

97年早々に発売された『愛と笑いの夜』を、僕にしては邦楽で珍しく、発売直後に購入した。アルバムとしての完成度は、前作を優に凌ぐ出来で、とにかく楽曲が粒ぞろい。全体的に音の密度が増して、ロック色が強くなっており、それでいて、彼ら特有の物悲しくも、甘酸っぱさ、気怠さの残る歌詞と旋律が生きている。彼らのアコースティックなイメージを損なうことなく、ある意味でこれまでの集大成的な作品となっている。当時、僕はこのアルバムを飽きずに繰り返し聴いた。楽曲的に最初の2曲のインパクトが大きいけれど、全体としてバラエティに富んでいて、『JET』だとか、『96粒の涙』とか、『サマー・ソルジャー』とか、涙が出るほどいい曲なのだ。どこかで聴いたような懐かしいフレーズ、確かにはっぴいえんどのソフトな部分(『風街ろまん』の方)の模倣のようにも思えるけど、そこには時代の違い、25年を隔てた新鮮な味わいがある。
『愛と笑いの夜』は、1月に発売されたのだけど、アルバム全体として夏のイメージが強い。『サマーソルジャー』とか、『海岸行き』とか。『東京』は春のイメージ。そこには彼らなりの日常的な季節の連続性を感じる。

とにかく、『愛と笑いの夜』は、いい楽曲が揃っていて、アルバムとして統一感があり、尚且つ、彼ら独自の色と質感がある。その年の日本のロックを代表する素晴らしい傑作であった。しかし、1997年のサニーデイ・サービスは、それだけで終わらなかった。

同じ年の10月、『サニーデイ・サービス』が発売される。1曲目、『baby blue』。僕はこの曲の冒頭のギターフレーズを聴いた瞬間、アルバムが傑作であることを確信した。
『サニーデイ・サービス』もバラエティに富んだアルバムであるが、アルバムとしての印象はどうしても1曲目『baby blue』によって特徴づけられる。これまでとは異質の暗く、重いメロディ。アコースティックなのだけど、デジタルを感じさせる音の質感。あのベースの旋律のせいだろうか、世紀末的な終末観を自然に醸し出すサウンド。バラード的な非日常のSF世界を想像させる。今ならば、レディオヘッドの音楽と比較できるかもしれない。(同じ年に発売された彼らの傑作『OK Computer』とシンクロしつつ)

もちろん『baby blue』以外にも、『NOW』や『枯れ葉』、『虹の午後』、『星を見たかい?』など、素晴らしい曲が多く、全体としてみれば割と明るいポップさに彩られたアルバムなのであるが、やはり1曲目の質感がアルバム全体の印象を決定していると感じる。そして、7曲目、12曲目。

行き先違いの列車に揺られ走る
それならそれでいいじゃないか
昼と夜の間をゆらゆら揺れる
こんなことを待ってたように思う baby blue

見張り台で監視は眠り続ける
はじめっからだれもいないようなもの 約束の時間さ

どこかでだれかとだれかが恋におちる
そんな風景を見に行こうか
昼と夜の間をゆっくりと駆ける
そんなことを待ってたように思う baby blue

サニーデイ・サービス "baby blue"

ピンク・ムーンがやって来てアパートのドアをたたく
船出の夜 きみは思う「花束を忘れた」と
今夜また新しい月が登る
きみも部屋の窓から顔を出せよ RIDE ON RIDE ON

サニーデイ・サービス "PINK MOON"

きみの声がすれば いつだってぼくは振り返ってしまうんだから
もう灰色の列車に乗り遅れてしまった
乗り過ごしてしまったじゃないか

サニーデイ・サービス "bye bye blackbird"

一体、ここは何処で、いつの時代なのか? 昼と夜の間とはどんな瞬間なのか?
baby blueの風景。その曲を聴くたびに、僕は灰色列車に揺られて、昼と夜の間を行き来しつつ、ピンクムーンが夜空を照らす少し狂ったもう一つの世界に導かれる。


# by onomichi1969 | 2011-10-14 00:42 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01モテキsemスキン用のアイコン02

  

2011年 10月 10日

前半はすごく面白かったのだけど、後半は観ているのが結構辛かった。なんか面白くなくて。それは結局のところ、主人公が何故モテるのか観ている最中に殆ど理解できなかったからだろう。ホント、何でそんなにモテるのかな? ちなみに森山未來クン自身はダンスもうまいし、すごく魅力的だとは思うけど。(以前見た新感線の舞台もサイコーだったし)

これからの時代、趣味の結びつきこそが人間関係の基本となる、つまり「生きる縁(よすが)」となり得るのだ、と言ったのは『ハイ・フィデリティ』の主人公だったか。なるほど、今やそれが現実的に妥当な時代がやってきたということか。成長よりも趣味ってか。

それはそれとして、リリーフランキーの演技は最高だったなぁ。役柄は人としてサイテーなところもあるのだけれど、全然憎めないというか。ああいういい加減さって、逆に人間的に大きな魅力として映るのかもね。

# by onomichi1969 | 2011-10-10 01:15 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01川の底からこんにちはsemスキン用のアイコン02

  

2011年 10月 10日

主人公の「頑張る」という言葉が妙に切実に響いたのは、「頑張る」とか「頑張ろう」という言葉自体が最近世間で使われなくなったからかもしれない。一億総うつ社会。敢えて「頑張らない」ことや競争しないことが今や美徳となっているから。みんな「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン」なのだから。
また、他人に「頑張れ」と言わないこと。それは「頑張れ」という言葉の無責任さや無神経さを自覚してのことだというが、裏を返せば、他人の気持ちに深く踏み込めない、責任を持てない関係性そのものの希薄さを表している。

僕自身は、年がら年中、「頑張る」と言い続けているような気がする。そう言って自分を鼓舞しないとやっていけないので、それは「しょうがない」のだ。とにかく頑張って、家族や会社を守る。人は社会で(ちっぽけでも何でも)責任ある立場を得ると、無根拠でも何でも頑張らないとやっていけないのです。とにかく明日も頑張るので、今日は寝る。それは決めたことだから。それはもうしょうがないから。

満島ひかりは相変わらずうまいなぁと思うのだけど、今回の主人公はちょっと共感しづらい点がところどころにあり。そういう違和感も彼女の魅力なのだけどね。

# by onomichi1969 | 2011-10-10 01:03 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01探偵はBARにいるsemスキン用のアイコン02

  

2011年 10月 05日

面白かったので、映画を観てから、原作も読んだ。原作との大きな違いは「相棒」高田こと、松田龍平が準主役級の扱いになったこと。高田の恍けた味わいと2人の掛け合いが楽しかった分、主人公「俺」の大泉洋の魅力もかなりアップしたと思う。映画は、原作以上に登場人物たちのキャラが立っていて、キャラクター映画としても楽しめる。
主人公のキャラも若干かぶるけど、ところどころにルパン三世を彷彿とさせるシーンがあったりして、それも結構面白かった。
実は、それほど期待して観始めたわけではなかったので、カルメン・マキの登場、彼女の一言と『時計をとめて』には個人的にいきなり「やられた」って感じだった。そういった映画を印象付ける小道具が効いていて、いくつかの小技(ディテール)がツボを突いた。主人公の行動はわりとコミカルなのだけど、それでも自らの信条(マキシム)に従っているかの如き言い訳がましいモノローグが微笑ましく、ハードボイルドというよりはソフトボイルドって感じで、それはそれでひとつの文体として結構ハマっていたと思う。

但し、主に原作との比較で不満な点もあった。ひとつはバイオレンス描写。高嶋政伸のキャラ故のことだと思うが、あそこまでの(原作にもない)バイオレンス描写を映像化する意味があったのだろうか?正直、やりすぎの感あり。 もうひとつは冒頭シーン。原作は、ハードボイルド小説の常套として、依頼人からの電話で始まる。映画もそれに倣ってほしかった。それはやっぱりお約束でしょう。

最後に、主人公が真相に気付くシーン。これは原作にない感動的なシークエンスだと思う。正直言って、真相そのものは「それしかないだろう」というほどに単純なプロットなのだけど、事件に至る彼の人の動機、探偵が事件に拘る動機、登場人物たちが事件に関わるそれぞれの動機に関しては、すごく説得的で、胸にじーんとくるものがあった。それは「愛」である。たとえその行いが間違っていたとしても。。

# by onomichi1969 | 2011-10-05 22:56 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01ジュリエットからの手紙semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 22日

恋愛映画というよりも、人生讃歌。

そもそも、「ヴァネッサ・レッドグレーヴおばあちゃんの昔の恋人を探せ」的な展開は、その描き方からして彼女の若き日の熱烈な恋愛エピソードから50年後の後日談であり、それだけとってみれば、これは恋愛映画というよりも恋愛ドキュメンタリーのようなものである。彼女の実らなかった恋の話は詳しく語られないが、敢えてイメージすれば、『ローマの休日』や『カサブランカ』の後日談と言ってもいいものだろう。

若き日の恋心。そして挫折。恋愛の時期を過ぎれば、家庭や仕事、生活という些事に忙殺され、僕らの生活はそれらに没頭する毎日となる。(もちろん生活も生き甲斐である) 年を経て、そういった全ての些事から開放される年代となり、ようやく若き日の恋愛に思い至る。恋愛とは何だろう?黙って見つめ合うだけで気持ちを共有できる(と幻想する)関係だろうか。人が人を求め、人に求められる。幻想が確信となれば、それは人生において生きる心の支えになるだろう。

クレアが昔の恋人と再会するシーン。彼女が見つめると彼はだまって見つめ返す。50年の時を経て気持ちが通じ合う2人。ありえないと思いつつ、とても感動的なシーンでもある。クレアが昔の恋人と再会した後、今度はソフィーとチャーリーの恋愛がクローズアップされ、クレアがそれを見守る立場となる。 実はソフィーとチャーリーの存在は、観客たる僕ら自身とも重ねられる。クレアの恋愛ドキュメンタリーを見守る立場として、ソフィーとチャーリーと僕らは同じ視線を共有していたのである。ソフィーとチャーリーはクレアの影響を受けて、お互いを見つめ合い、そのことを確信することで、恋愛に踏み出す決意をする。僕らは知らず知らずのうちに彼らと気持ちを共有しつつ、自らの生活を思い返す。(映画としてそういう構造になっている)その時、僕らは映画を他人の恋愛を非日常的に傍観するのとは違う、より日常に引き寄せた心持ちとして体験し、見つめるべき人の姿を想い、そこに人生に対する新しい希望を見出すのである。(見い出せない人もいるだろうけど。。) だから僕は、この映画を通常の恋愛映画とは違う、寧ろ人生讃歌と言いたいのである。

# by onomichi1969 | 2011-08-22 02:09 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01頭脳警察 『頭脳警察1』(1972)semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 18日

それではお待たせしました! 頭脳警察です!

あ、あ、あ、あ、あ。
試験、試験。期末試験、実地試験、中間試験。
あ、あ、入試阻止。あ、あ。


ブルジョアジー諸君!!

我々は、世界中で君達を革命戦争の場に叩き込んで一掃する為に、ここに公然と宣戦を布告するものである。

君達の歴史は、もはや分かりすぎている。
君達の歴史は、血塗られた歴史じゃないか。

君達の間での世界強盗戦争の為に我々はだまし、互いに殺あわせてきた。嘘だとは言わせない。

我々はもうそそのかされ、だまされはしない。

君達にベトナムの民を好き勝手に殺す権利があるなら、我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある。

君達にブラックパンサーを殺し、ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるなら、我々にも、ニクソン・佐藤・キージンガー・ドゴールを殺し、ペンタゴン・防衛庁・警視庁・君達の家々を爆弾で破壊する権利がある。

君達に沖縄の民を銃剣で刺し殺す権利があるなら、我々にも君達をナイフで突き殺す権利がある。

いつまでも君達の思い通りになると思ったら大間違いだ。
君達の時代は既に終わった。
我々は最後の戦争の為に、世界革命戦争の勝利の為に、君達をこの世から抹殺する為に最後まで戦い抜く。

我々は自衛隊・機動隊・米軍諸君に公然と銃を向ける。
殺されるのがいやなら、その銃を後ろに向けろ。
君達をそそのかし、後ろであやつる豚共に向けて。

我々を邪魔する奴は、容赦なく抹殺する。

世界革命戦争宣言をここに発する。

----------------------------------
というわけで、
頭脳警察の『頭脳警察1』である。

1972年、カッティング前には既に発禁となっており、幻のレコードと呼ばれていたが、30年の時を経た2001年、まさかまさかの再発となった。

過激な歌詞。しかし、その内容は完全に風化してしまった。
(だから再発されることになったのだろう)
上記の頭脳警察版の『世界革命戦争宣言』は、1969年に赤軍派が発した「世界革命戦争宣言」が基になっている。

PANTAが歌う『世界革命戦争宣言』はとてもよく響く。何度聴いても、彼の叫びは心に響くものがある。何故だろう? 歌詞自体は今や空疎そのものなのだが。

但し、『言い訳なんていらねえよ』という歌の歌詞はとてもここに書けないシロモノである。ここだけ聴けば、何故再発が許可されたか不思議なくらい。


# by onomichi1969 | 2011-08-18 00:35 | 日本のロック | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01ツリー・オブ・ライフ "The Tree of Life"semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 15日

生きていくということ。生命の系譜について。その大切なことの全てがこの映画には詰まっている。創世から神の国に至る道筋を個人の意識(記憶)を含めたイメージとして映像化し得たこと。素晴らしいと感じた。これまでに経験したことのない種類の感動が確かにあった。旧約の世界。創世から人類の誕生。生命の樹。楽園からの追放。カインとアベル。ヨブの物語。そしてイエスの愛。それは、キリスト教世界のエッセンス、歴史を辿るイメージであると共に、現実的な主人公の家族を巡る物語に重なる。壮大且つちっぽけな物語。

"There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow."

映画の冒頭で語られる母親(ジェシカ・チャステイン)の言葉であり、一見この映画の主題そのものを言い当てているように思える。「世俗に染まるか、神に委ねるか」と訳されていたが、意味合いとして、世俗とnatureは少し違うような気もするけど、natureとgraceがキリスト教世界における対概念であることは確かである。しかし、この映画から僕が受けた印象は、その対立ではなく、融合。対立を含む一体化である。

アメリカ人の90%は神の存在を信じているという。故に、先に発表されたホーキング博士の「神の非在発言」『ホーキング、宇宙と人間を語る』)が如何にセンセーショナルだったかは想像に難くない。確かに宇宙物理学者であり、究極の無神論者であるホーキング博士はとても稀な存在と言える。アメリカでは、科学と宗教は基本的に矛盾しない。量子力学と神の存在は両立するのである。そもそも、神の御業によって成立した世界を人間の理性によって明らかにしようとする試みこそが科学である。だから、アインシュタインは量子力学の確率論的な不確定性を「神はサイコロを振らない」と言って否定した。神は完全であるべきだと。人間理性によって認識に至らない非知の世界もあるだろう。しかし、世界は不完全で不確定であることが証明された現代において、神(GOD)の存在は、完全さと不完全さを包含した、世界を肯定し得る存在として感じることもできる。

本作品の映像世界が示すのは対立ではなく、融合である。映像によって一体化されるnatureとgrace。それは地球と生命の歴史を含んだ旧約から新約に至るキリスト教的な世界の系譜そのものであり、イエスの愛に至る道筋そのものであり、同時にそれは個人の歴史に重なり合う。その物語、その映像。究極にエッセンシャルな物語。だからこそ、この映画はすごい。

National Geographic的な映像の美しさがこの映画の特徴でもある。その中に恐竜のCGが挿入されていて、最初は??と思ったが、あの映像こそ、この映画の主題そのものに通じていたのだと今にして思う。それは、兄弟や父子の確執が途中決定的な亀裂を垣間見せながら、最終的に和解へと至る道筋を示唆していたと言えないだろうか。そういう伏線も感動的である。

この作品は、確かにこれまでの映画という概念を易々と超えている。映画を評価する客観的な従来型の指標があるとして、それには到底当てはまらないし、自らの知識と理解を超えた内容に対して「これは酷い」と思わずつぶやいてしまう気持ちも分からないではない。しかし、それはすごく勿体ないことだ。この映画が誘う世界、想像力が導く世界は、新しいイコンである。僕は、この作品をもう一度観たいと思った。

# by onomichi1969 | 2011-08-15 22:41 | 海外の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01東京公園semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 14日

伝わる映画。

日常の中、生活全般に関わる些事の中で泡のように浮かんでは消えていく淡い想い。それでいて胸を締め付ける想い。そんな人を愛しむ想いの大切さを教えてくれる。(映画の中で榮倉奈々ちゃんは『雪のように溶ける想い』って言っていたよ) それは真っ直ぐに見つめるべきもの。そして、見つめ返されることの中に答えがある。(いや、見つめ返されることそのものが答えか) この物語はそう語りかける。海風の漣、暖かい陽だまり、木の葉のさざめき、大樹の陰。公園も語りかける。それが自然なのだと。

主人公はレンズの先の女性(井川遥)に導かれ、東京中の公園を巡る。異母兄弟となる姉(小西真奈美)に導かれ、亡き友人の彼女(榮倉奈々)に導かれ、最後には最も自然なカンケイに収まるのである。男たちは迷う。もちろん、女たちも迷う。想いが泡のように浮かんでも、せわしなさの中で、ともすれば、それを掴み損ねる。そんな時、東京を、そしてその場所を公園だと思えば、そこに佇むのも悪くない。

真っ直ぐに見つめ合い、ただお互いを確認し合う。そういう時間があっていいのだなぁ。公園のような暖かさ。主人公の自然な振る舞いは、確かに小津映画に出てくる人々を思い出す。それが生活というものの本来的な味わいに繋がっていくのだろうなぁ。生活感あふれる現実的なラストシーンは、そんなことを思い起こさせるに十分意図的な演出なのだろう。

※本作品、ロカルノ国際映画祭で金豹賞審査員特別賞を受賞したそうです。なるほど、欧米の方々の理解は案外僕らより深いのかな。

【ロカルノ映画祭】青山真治監督『東京公園』が審査員特別賞


# by onomichi1969 | 2011-08-14 18:16 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01『ミッション:8ミニッツ』(原題”Source Code”) 10月公開予定semスキン用のアイコン02

  

2011年 08月 06日

本来、理論的位置づけがそこはかとなくあって、主題が現代思想的にも有意で、なおかつ人間的に必然な要素(恋愛とか利己とか家族愛とか)が絡んでいて、とにかく面白い、というのがSF作品に僕らが求めるところではないだろうか。
映画『インセプション』のレビューで僕はこう書いた。そして、昨日、そんなSF作品に偶然出会ってしまった。映画『ミッション:8ミニッツ』(原題”Source Code”)である。日本未公開ながら、LufthansaのFRT~NRT機内映画として上映していた。これがとても面白かったのである。

SFとしての設定はそれほど難しくない。
シカゴで列車爆破事件が起きる。アメリカ陸軍の元ヘリコプター・パイロット、コルター・スティーブンスは、政府の開発したシステム『ソース・コード』によって、テロの犠牲になった一般人の死ぬ直前8分間の意識(記憶)に侵入し、犯人の手がかりを掴むというミッションを与えられる。彼は、カプセルの中に拘束され、コントロール室の女性大尉コリーン・グッドウィンの指示により他者の記憶への侵入を繰り返す。
このミッションの成否により、次に予告されている大規模爆破テロを防げるかどうかが決まる。繰り返される8分間の中で、コルターは「何故自分なのか?」という考えに囚われてコリーンと対立しつつも、ミッションを果たすために奮闘するのだが。。。

コルターは、他人の記憶に意識を同化させることにより、彼の最期の8分間を何度も「生きる」。しかし、彼は、犯人に辿り着くことなく、列車を何度も爆発させてしまう。その中で、列車の中で関わる人々の動きが彼自身の行動の変化によって毎回違うことに彼は気付く。これは記憶の変遷、仮想現実の単なるバリエーション(誤差範囲)にすぎないのか?そして、何度目かの意識同化の中で、彼は逃走した犯人の手掛かりを見つけることに成功し、犯人は現実の中で逮捕される。しかし、ミッションの成否に関わらず、列車の中の人々は、現実にはもう既に死んでいる過去の記憶の断片にすぎないのだ。そして彼も。。。

彼は、2-3度目かの記憶同化の際に、同席していた女性を列車から救い出し命を助ける。彼は、既存記憶の枠を超えて彼女の命を助け得たことに、彼の行動が持つある種の可能性に気付く。繰り返される8分間の中で、彼は彼女と何度も出会い、会話を繰り返し、彼女に恋をした。彼は、現実には死んでいる彼女を助けたいと切実に願った。その思いは冷徹と思われたコリーン・グッドウィンを動かす。最後の最期の8分間の中でコルターはある決意をする。。。

脳内信号が言語データとして扱えること。他人の脳内記憶データを認識することにより、意識が時空間を超えて存在できること。そして、そこから人間原理に基づく量子力学的な多世界解釈が生まれること。この映画のラストシーン。時空を超えた意識が確率論的な現実を生み出し、量子力学的な多世界解釈と結びつく。彼は彼女を助け、世界を変える。意識のパラレルワールドを現実として生きる。素晴らしい。そうきたか!僕は「やったー!」と叫びたくなった。

あと1分しか生きられなかったら、何をする?

たぶん、今年一番のSF映画だと思う。日本では10月公開予定。(アメリカでは2011年4月公開、米映画)

※監督のダンカン・ジョーンズは、デヴィッド・ボウイの息子である。さすが、センスがいいね。

# by onomichi1969 | 2011-08-06 00:43 | 海外の映画 | Trackback(1) | Comments(0)

semスキン用のアイコン01寝盗られ宗介semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 24日

原田芳雄さんが逝去されました。

新宿アウトロー、反逆のメロディという独特のワイルドなイメージが彼の代名詞だと思いますが、僕の中で原田芳雄と言えば、『竜馬暗殺』『はなれ瞽女おりん』『ツィゴイネルワイゼン』『浪人街』『われに撃つ用意あり』『寝盗られ宗介』といった作品が思い浮かびます。多くの出演作の中で、主演作品というのは思ったほど多くないのですね。最近は、『歩いても 歩いても』や『奇跡』で脇を固める渋いおじいちゃんの役がとても自然で結構ハマっていたと思います。

主演作を並べてみれば、主人公の個性がまさに原田芳雄のワイルドなイメージそのものであることが分かります。時代考証を越えた(現代的な)彼の個性が映画の個性にもなっていると言っていいでしょう。原田芳雄の竜馬は、やっぱり原田芳雄でしかなく、そのまま浪人街に繋がっていきます。そういう役者って、実はそれほど多くないでしょう。個性は違いますが、高倉健や勝新太郎などもそうかもしれません。故に、シリーズものは別にして、様々な役柄を主演としてこなすいうわけにはいかなかったのだと思います。その強烈な個性、イメージを中心に据えるということは、作品のバランスを容易に損なうリスクがあるからです。それを脇に据えてスパイスとするのとは全く違うのだと言えます。(松田優作の『家族ゲーム』や『探偵物語』のようにその個性を逆手に取るという戦略もあったでしょうけど)

さて、『寝盗られ宗介』は、つかこうへいの舞台作を若松孝二-原田芳雄のコンビで映画化した1992年の作品です。つか作品はよく知りませんが、映画『寝盗られ宗介』は、やはり主人公が原田芳雄ということで、彼独自のアウトローというイメージが纏わり付きます。中年のアウトロー。そこはかとないアウトロー。アウトローの末路と言えばいいでしょうか。とはいえ、別に拳銃を隠し持っている元テロリストというわけではなく、ただのドサ回り一座の座長にすぎないわけで、その存在はアウトローにしてはかなり頼りなく、庶民的です。さらに、女房を駆け落ちさせて、戻ってくる度に、彼女がまた自分を選んだことに自足し、恋愛感情を細々と持続させるという、主人公は、なんという姑息な人格でしょうか。
しかし、単純にそうとも感じられないのです。原田芳雄が主人公を演じることにより、それが人間として、正当であるような、そんな重みを錯覚させるのです。そして、『愛の賛歌』です。このクライマックスの歌が指し示す「深み」と「高み」は、その意外性と共に、映画そのものに大きなインパクトを与えています。観ている僕らを高揚させ、そのふわーっとした高みから物語も大団円を迎えるのです。人生っていいものだなぁ~なんてね。

この映画は、ストーリーに特筆するところはないのですが、やはり原田芳雄の存在感が光ります。それは主人公の役柄を超えます。その個性をじっくりと味わえるかどうか、それによって評価が分かれる作品なのだと思います。

ご冥福をお祈りします。

# by onomichi1969 | 2011-07-24 18:05 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01ある少女の選択 田嶋華子さんの「延命拒否」semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 23日

「ある少女の選択 “延命”生と死のはざまで」 NHKクローズアップ現代 2010年12月8日放送

腎臓の「人工透析」30万人。口ではなくチューブで胃から栄養をとる「胃ろう(経管栄養)」40万人。そして、人工呼吸器の使用者3万人。「延命治療」の発達で、重い病気や障害があっても、生きられる命が増えている。しかしその一方、「延命治療」は必ずしも患者の「生」を豊かなものにしていないのではないかという疑問や葛藤が、患者や家族・医師たちの間に広がりつつある。田嶋華子さん(享年18)は、8歳で心臓移植。さらに15歳で人工呼吸器を装着し、声も失った。『これ以上の「延命治療」は受けたくない』と家族と葛藤を繰り返した華子さん。自宅療養を選び、「人工透析」を拒否して、9月、肺炎をこじらせて亡くなった。華子さんの闘病を1年にわたって記録。「延命」とは何か。「生きる」こととは何か。問いを繰り返しながら亡くなった華子さんと、その葛藤を見つめた家族・医師たちを通じて、医療の進歩が投げかける問いと向き合いたい。
「NHKクローズアップ現代 内容紹介」より

昨晩、富山のホテルで再放送をたまたま観ることができました。
とても胸を衝かれました。

背骨が曲がり心臓に重い障害をもつ田嶋華子さんは、18歳の時に腎不全を発症し、自らの命の限界を悟ります。延命の為には入院による人工透析が必要なのですが、華子さんは「普通に家族と三人で暮らす」為にその治療を拒否するのです。そして言葉を伝えます。「命は長さじゃない。どう生きるかだよ」
両親は華子さんの意思を尊重しつつも、揺れ動きます。彼女の体は人工透析を受けないが故に浮腫み、膨れ上がっていきます。あるとき、父親は耐え切れず、華子さんに入院を勧めるのですが、彼女は父親の申し出をやんわりと拒否します。彼女は無力を嘆く母親にそっと手を差し伸べ、やさしく手を握ります。華子さんは、自身の生き方を貫きます。とても静かで強い意志、深い決意で。2ヶ月後、彼女は両親に看取られながら、自宅で息を引き取ります。

華子さんの決断は、「延命治療」の是非という「医療の進歩が投げかける問い」というよりも、「生きるとは何か」というよりシンプルな問いとして僕の胸を衝いたのです。声を失った華子さんは、パソコンや携帯のメールで多くの意思を残します。華子さんの言葉は、彼女のメール友達で昔、7歳の娘を病気で亡くしたの年長の大学教授、野口明子さんの心を動かしたのと同時に、とても説得的に僕らに響くのです。彼女にとって「命」とは、先に延ばすものでなく、その瞬間を生きること、本当に大事な人と共にいることだと伝えられます。

彼女が「生きたい」と言うとき、それは大好きな家族とゆっくり過ごすことを指します。両親の問いかけに頷き、はにかみながら、笑顔で手を振る華子さん。それが自分らしくふわーと生きていくこと。生きるとはこういうことなのだなと教えられます。

死ぬのは怖くないの?と聞かれ、彼女は答えます。
「終わりだけど、終わりじゃない。心があるから怖くないんです」
そして最後の言葉。「感謝」

華子さんは自分の生き方を伝えたかったのです。多くの人に。だからこのドキュメンタリーがあります。ぜひDVD化または永久アーカイブにして欲しいですね。

ダイジェスト版はこちらで

※ ダイジェスト版では、華子さんと野口さんのメールでの交流がカットされています。本当はこのやりとりがとても心に響くのですが。。。

# by onomichi1969 | 2011-07-23 22:47 | ドキュメンタリー | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01日本のロック&ポップ BEST 60 を選んでみました!semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 21日

1. はっぴいえんど/はっぴいえんど(1970)
2. フラワー・トラヴェリン・バンド/SATORI(1971)
3. ブルース・クリエイション/悪魔と11人の子供達(1971)
4. 頭脳警察/頭脳警察1(1972)
5. はちみつぱい/センチメンタル通り(1973)
6. 荒井由実/ひこうき雲(1973)
7. 井上陽水/氷の世界(1973)
8. 村八分/ライブ!(1973)
9. 山口冨士夫/ひまつぶし(1974)
10. 大滝詠一/NIAGARA MOON(1975)
11.ティン・パン・アレー/キャラメル・ママ(1975)
12. RCサクセション/シングル・マン(1976)
13. 泉谷しげる/80のバラッド(1978)
14. Johnny, Louis & Char/FREE SPIRIT(1979)
15. A.R.B./BAD NEWS(1980)
16. ザ・ルースターズ/THE ROOSTERS(1980)
17. 甲斐バンド/100万$ナイト(1980)
18. ザ・モッズ/FIGHT OR FLIGHT (1981)
19. 佐野元春/HEART BEAT(1981)
20. 大滝詠一/A LONG VACATION(1981)
21. ザ・ストリート・スライダーズ/SLIDER JOINT(1983)
22. 杉真理/STARGAZER(1983)
23. 山下達郎/BIG WAVE(1984)
24. 佐野元春/VISITORS(1984)
25. レベッカ/REBECCA IV ~Maybe tomorrow~(1985)
26. 尾崎豊/壊れた扉から(1985)
27. ザ・ストリート・スライダーズ/BAD INFLUENCE(1987)
28. ザ・ブルーハーツ/YOUNG AND PRETTY(1987)
29. レッド・ウォリアーズ/CASINO DRIVE(1987)
30. 岡村孝子/AFTER TONE(1987)
31. チャゲ&飛鳥/スーパーベスト(1987)
32. RCサクセション/カバーズ(1988)
33. エレファントカシマシ/エレファントカシマシⅡ(1988)
34. SION & THE NOIS/SIREN(1988)
35. 泉谷しげる/吠えるバラッド(1988)
36. ジュン・スカイ・ウォーカーズ/ひとつ抱きしめて(1988)
37. PERSONZ/NO MORE TEARS(1989)
38. ボ・ガンボス/BO & GAMBO(1989)
39. 真島昌利/夏のぬけがら(1989)
40. サザンオールスターズ/SOUTHERN ALL STARS(1990)
41. 尾崎豊/誕生(1990)
42. フリッパーズ・ギター/カメラ・トーク(1990)
43. 真島昌利/HAPPY SONGS(1991)
44. 橘いずみ/こぼれおちるもの(1994)
45. ウルフルズ/すっとばす(1994)
46. 真心ブラザーズ/KING OF ROCK(1995)
47. UA/11(1996)
48. エレファントカシマシ/ココロに花を(1996)
49. サザンオールスターズ/YOUNG LOVE(1996)
50. 山崎まさよし/HOME(1997)
51. CHARA/JUNIOR SWEET(1997)
52. Cocco/ブーゲンビリア(1997)
53. サニーデイ・サービス/愛と笑いの夜(1997)
54. サニーデイ・サービス/サニーデイ・サービス(1997)
55. ゆらゆら帝国/3×3×3(1998)
56. 椎名林檎/無罪モラトリアム(1999)
57. 竹内まりや/IMPRESSIONS(1999)
58. 山下達郎/TREASURES(1999)
59. エコーズ/BEST OF BEST(2000)
60. スターダスト・レビュー/BLUE STARDUST / RED STARDUST(2009)

渾身のセレクションです。実は最初の目論みはベスト50だったのですが、どーしても、こーしても50枚に絞れず。1週間悩んで、最終的にベスト60に落ち着きました。人生無理は禁物。適度な妥協が肝心です。
ベスト盤はなるべく入れないようにしようかなと思いましたが、最後にちょこっと。これらはやっぱりベスト盤かなと。

この中からぼちぼちとレビューしていきます。

Rev.1 さっそくいくつか入れ替え戦しました。(2011年8月16日)
Rev.2 もういっちょ!(2011年9月5日)
Rev.3 杉とチャゲアスを入れました。(2012年1月1日)

# by onomichi1969 | 2011-07-21 22:30 | ランキング | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01菅直人と世界の戦いでは、菅直人を支援したいsemスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 18日

菅首相が「脱原発」宣言を行った。将来像としての「脱原発」である。直ちに全てを止めるという話では全くない。

発言そのものはとても評価できる。全文を読んでみればよく分かるように至極真っ当なことが述べられている。私自身の考えであるという前置きはあるが、日本のエネルギー政策の転換という一大事を一国の首相が示唆したのである。その具体性はさておき、これはエポックメイキングな出来事であり、その内容をどう評価するかによって、メディアや他の政治家達はその立ち位置を否応なく問われるはず、、であった。

しかし、会見を受けたメディアの言説は、政局に関するものばかりで、宣言そのものを「評価」した既存メディアは殆どなかった。(朝日新聞くらい?)何故だろう?

こういう世の中こそが問題ではないか?
多くの人たちはメディアの言説に左右されやすい。(また少なからぬ人々は既にメディアの言説を殆ど信用しなくなっている)

本当に真っ当なことは、なかなか伝わらない。そういう現場に僕らは今、直面している。

テレビで「この宣言は自らの脱原発の方向性を支持するのかどうかを迫る踏み絵だ」と言った人もいたけど、結局のところ、宣言そのものが政局と菅直人の人間性の問題に引きずり落とされ、この時期に「脱原発」をアピールすることで、この国の方向性に一定の舵をきろうとした首相の乾坤一擲を賭した意図は殆ど失われてしまったようにみえる。残念ながら。

誰が言ったというのではなく、言われたことそのものを評価すべきだと僕は思っている。(それがテキストの本質でしょう)

何度読み返しても、菅首相の言っていることは至極真っ当である。僕には、この宣言は軽くもないし、唐突にも思えない。とても大事なことがシンプルに謙虚に述べられていると感じる。メディアや政府、民主党、自民党は、このアドバルーンをもっと真摯に受け止めるべきなのではないだろうか。菅直人という元運動家にして、現在の政府の最高権力者が打ち上げたアドバルーンを。そして、僕らはこの踏み絵に対して、政治家達がどう反応しているのか、それをしっかりモニタリングすべきだろう。

7月13日記者会見全文

# by onomichi1969 | 2011-07-18 21:07 | 時事 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01君と世界の戦いでは、世界に支援せよsemスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 09日

『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』
カフカの言葉であり、加藤典洋の1988年に出版された著書の題名である。僕がこの印象的な表題作を冒頭に配した加藤典洋の評論集を読んだのは1991年頃。バブルの余韻の中で何かが変わり、そして、湾岸戦争によって世の中に不穏な空気が漂いだした頃である。
つまり、ここに簡明な比喩を用いるなら、吉本は北極の氷が融けて、世界の水位が上がり、いままで陸地だったところがいつのまにか大部分水没してしまったと、いっている。その領域を増しつつある海の部分と、日々広さを狭めつつある陸地の部分が、五対五、あるいは六対四で拮抗している間は、「社会」と人間の「内面」の対立は、現実的基盤をもっていた。しかし、水位がさらに上がり、人間の「内面」が「社会」に九割九分まで浸透され、覆いつくされるというような事態を前にして、なおも、もし小説家が人間の「内面」(孤独)と「社会」の旧来の関係式にそって小説を書くとすれば、その小説は、彼の生きる世界の全現実の残り一分を覆うにすぎない。またそのように小説を書きながらもし小説家が、自分の小説は自分の生きる世界の全現実に立脚していると思いみなすなら、彼は、彼の眼前にひろがる世界からそれと意識せずに眼をそらし、同時に深い自己欺瞞におちいっていることになるだろう。
それではこのような状況の中で人間の孤独はどこにいくか。それは残る。しかしそれは人間の孤独というよりは、人間のごく一部、九割九分の「社会」の浸透に追い詰められた一分の「内面」を覆うものとして、つまり、”たわいのない孤独”として、残るのである。
加藤典洋『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』
加藤典洋はその後、集大成的な評論集『ゆるやかな速度』の中で、カフカの『変身』(及び吉本隆明の「変成論」『マスイメージ論』)を引用し、自分(心と身体)が失われていく過程と、それを受け入れていかざるを得ない状況について、それは恐怖であるとともに、自分を縛っていたものがふわっと解けるような、そういう類の快感、「抗しがたい魅惑」でもあると評した。(快感原理は人類の進化を促す。。)

1991年は、いろんな意味で時代の分水嶺だったと今にして思う。フランシス・フクヤマが『歴史の終りと最後の人間』(The End of History and the Last Man)を著したのもこの時期である。

「歴史」とは、様々なイデオロギーの弁証法的闘争の過程であり、民主主義が自己の正当性を証明していく過程である。よって、民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わる。(フランシス・フクヤマ)

「最後の人間」は、ニーチェの概念である。「最後の人間」とは、(民主主義の勝利で)イデオロギー闘争が終わり、本質的なところで他人と争うことなく、価値相対主義の中に埋没して、気概を失ってしまった人間を指す。ソ連の崩壊を経た90年代初頭、ポップとマクドナルドと民主主義の勝利により、我々は「最後の人間」となったのである。

あれから20年。アメリカ人は、新たなイデオロギー闘争の火種を執拗に模索し、その気概を示し続けている。但し、そういった政治的な動きとは別に、世界を覆っているのは、「目的」を失った人々のアイロニーであり、ニヒリズムである。ポストモダンの中で、君は、世界に埋没し一体化したものとして、その差異のみとして、在る。

「根拠が失われた社会の中で、人はどのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」
これは、加藤典洋が、村上春樹の『ダンス ダンス ダンス』を評した際の言葉である。90年代以降、村上春樹は、世界で翻訳され、いまや世界感覚の作家として、各国から支持されている。

90年代初頭、僕は加藤典洋の本をよく読んだ。『アメリカの影』『ホーロー質』『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』『ゆるやかな速度』など。それは、たぶん、僕が村上春樹を好きで、加藤典洋が彼の批評をよく書いていたから。何故、当時、村上春樹であり、加藤典洋だったのか。その時の認識は、20年という時間を延長して今に続いているのだろうか。

僕の感覚で言えば、当時、それは僕の中で回収できないラディカリズムと共にあった。世界とのずれの中で自分自身の生き難さと共にあった。もちろん、それを表に出し続ければ社会では生きていけない。しかし、それを失えば、自分というものを失うのではないか。しかし、それは当時においても既に失われたものだったのであり、僕は加藤典洋の評論を通して、そのことにようやく気が付いたのである。

あるべきものがない、のではなく、ないことを自明として、また認識しつつ、真っ当に生きていく。その空っぽの中から生まれてきたのがオウムであり、サカキバラであった。善と悪の新しい地平の中で真っ当さをどう捉えたらいいのか。その有り得べき生き方こそが90年代(あるいは80年代)以降の文学的核心だったのだと僕は思う。しかし、今やそういう認識は「内面の喪失」の自明性故に、あまりにも当たり前な感覚として捉えられすぎている。それがこの20年の間に徐々に浸透していった水位の上昇から起こる必然であり、歴史の終わりの果てに現れた新しい世界の姿だと言っていいのかもしれない。

ということで、僕は、20年前の加藤典洋の著作を読み返してみたいと思う。そのことの理由として、思いつくままに。(八日目の蝉のレビューの補足として)

The answer, my friend, is blowin' in the wind. The answer is blowin' in the wind.
Bob Dylan "Blowin' In The Wind"

# by onomichi1969 | 2011-07-09 01:03 | | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01日本映画名作集semスキン用のアイコン02

  

2011年 07月 08日

本屋で発見。『日本映画名作集』DVD9枚組。1980円。何気なく手に取ると、収録されている作品が『青い山脈』『雨月物語』『地獄門』『西鶴一代女』『祇園囃子』『お遊さま』『武蔵野夫人』『雪夫人絵図』『銀座化粧』。速攻で買いました。

さっそく未見の溝口作品『雪夫人絵図』を観ましたよ。木暮実千代がいいのだけど、なんだかとても不幸な話。相変わらず上原謙にはイライラするなぁ。もう。

ちなみにこのシリーズの小津特集は以前買いました。これもお得です。一家に一組でしょう。

日本映画名作集〈9枚組DVD〉 6月17日発売!!

小津安二郎大全集〈9枚組DVD〉

# by onomichi1969 | 2011-07-08 00:20 | 日本の映画 | Trackback | Comments(0)

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